プレイヤーの視点について

〜AIR・AIR篇を中心に〜
Cain Farrel (c.f@ijk.com)

この原稿は2005年11月に「視点について」として加筆されました。

1、可能な三つの視点

 プレイヤーの視点ということで、ここでは三つの類型を挙げよう。
 第一に挙げられるのは「神の視点」である。これは物語世界の全てが、空間的にも時間的にも、プレイヤーに明らかであるような視点である。この視点を考える上で重要なのは、この視点から開ける世界は、時間空間による制約を受けず、全てが同時に完全に見渡されるという事である。このような視点を、実際のゲーム上で表現するのは殆ど不可能である。そうであるから、実際にはこの「神の視点」はゲームを離れて想起する場合にのみ見られるといえよう。この視点は、前-近代的な視点であり、以下では「超越的視点」と呼ぶ。
 第二に挙げられるのは「個人の視点」である。この視点では、多くのノベルゲームでそうであるように、プレイヤーの視点は物語中の登場人物の視点からのものとなる。登場人物の視点を共有するのであるから、その登場人物の時間的/空間的な制約をプレイヤーは共有する。そして、この視点で重要となるのは、プレイヤーは視点を共有する登場人物の内心を知る事が出来るが、それ以外の登場人物の内心を知る事は出来ない、という事である。より具体的に言えば、プレイヤーの物語世界に対する何らかの選択は、視点を共有する登場人物に関してはその意図を達成する事が出来るが、それ以外の登場人物にはそうはいかない、という事である。この視点は近代的な視点であり、以下「内在的視点」と呼ぶ。
 第三に挙げられるのは「共同的な視点」である。この視点は、「登場人物間の内心や行動の連鎖/関係における視点」として、定義上は与えられるのであるが、それがどのようなシステムや演出、あるいはプレイヤーの行動によって可能になるのかは未だ明らかでない。登場人物それぞれの視点から一つの物語が開けていくようなシステム(eveなど)はそれにあたるのかも知れない。だが、それぞれの視点においては内在的視点であり、それを統一的に見るプレイヤーでは超越的視点であるとも言える。この視点についての詳細な議論は後に譲る事にして、この視点をポスト-近代的な「共同的視点」と呼ぶ事にする。

2、プレイヤーの視点と意図

 一般にどのようなゲームであっても、プレイヤーの視点は究極的には内在的視点としてある。ゲームが展開していくディスプレイをプレイヤーが見るという構図は変えようがない。
 ここで、一般にノベルゲームと呼ばれるジャンルの諸ゲームの多くでは、もう一つの意味でもプレイヤーの視点は内在的である。すなわち、ある特定の登場人物(大抵は主人公)の視点から物語が展開していく、という点である。前節でも述べたように、このような視点ではプレイヤーの行う物語世界に対する選択は、視点を共有するところの登場人物の選択としてある。それゆえ逆に、視点を共有しない登場人物についてはプレイヤーの意図を達成することは出来ない。
 だが、たとえ視点を共有しているとしても、その共有している登場人物に関してプレイヤーの意図を達成する事が出来ない事は多くある。これはもちろん、ゲームにはデザイナー/ライター/GMなどが存在していることによるのであるが、プレイヤーの視点の問題にもこの制約は関係している。
 プレイヤーは登場人物と視野を同じくしながらも、常にはその登場人物に関してプレイヤーの意図を達成する事が出来ない。シナリオ中で提示される選択肢は、当然ながらそれまでのシナリオからの妥当性を持ってデザイナーなりライターなりが提示するのであり、登場人物にとっての選択肢=プレイヤーにとっての選択肢であるように提示される。そして、シナリオ中でなされる選択も、同様に登場人物の選択=プレイヤーの選択であるようにシナリオは展開していく。
 だが、そのようなシナリオが理想的であるのは確かだが、現実的ではない。プレイヤーはシナリオが提示する選択肢や選択とは異なる選択肢や選択を持つかも知れない。登場人物とプレイヤーは視点を共有し、似たような意志の形式を持つかも知れないが、だが異なる主体である。

2-1、AIR AIR篇への考察

 以上のような考察を手がかりにAIR篇を考察してみたい。
 プレイヤーが登場人物と視点を共有し、似たような意志の形式を持つとしても、異なる主体である。この事を表しているのが「そら」というAIR篇の主人公である。
 「そら」とは何であるのか。結論を言えば、そらはプレイヤー自身である。プレイヤーをゲームの内側に、ディスプレイの向こう側に、設定してみせたのがAIR篇である。DREAM篇とAIR篇の差異はそこにある。AIR篇を評して、プレイヤーは傍観者、とするものがあったが、これは全く正しい。AIR篇をプレイするプレイヤーは、そらの視点から物語が開けていくのを見るのだが、そのそら自身がゲーム内に取り込まれたプレイヤーなのである。AIR篇は1人称に偽装された3人称であり、その限りではプレイヤーが傍観者であるのは当然である。
 プレイヤーと登場人物は究極的には異なる存在であることを示したAIR篇では、使用されるCGの点からもDREAM篇と異なってくる。DREAM篇では決して使われる事のなかった往人のCGがそれである。そらはおそらくは往人の転生であり、その意味では前節で述べたようにAIR篇での往人と似たような意志の形式を持つかもしれない。だが、AIR篇の往人とそらは異なる主体である事を、視点が異なるということを明示するようなCGによって示している。
 また、同じくAIR篇で使用されたCGに観鈴が肩にそらを乗せているものがあるが、これは2つの事を示唆している。すなわち、第1には、プレイヤーが登場人物と視点を共有しているとしても、それは観鈴の肩に乗るそらが観鈴と視点を共有している程度である事、第2には、プレイヤーをゲーム内に取り込んだAIR篇においても、それがゲームという形式を取る以上、常にゲームが展開していくディスプレイを見るプレイヤーの存在がある事である。







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