「EVA・Kanon・ONE」統合評論(という名のフィクション)
りとん・ばい C.F (c.f@ijk.com)


「人はみんな繋がってる、人の意識が本当にあるところで……。
 あたしは、そこにいるの。
 だから−−、あたしはどこにだっているの……。
 (微笑み)だから−−(やや画面に近づいて)。
 一緒にいるんだよ……ずっと……」
(scenario experiments lain, p.329, layer:13, 玲音の物語中最後の発言)

 言語ゲームがいわば予見不可能なものであることに思いを致さなくてはならない。わたしの考えでは、それは根拠づけられていない。理性的ではない。(非理性的でもない)。
 それはそこにある−−我々の生活と同じように。
(L.Wittgenstein, 確実性の問題, 559節)
独我論の破綻
 人類補完計画も約束も永遠も破綻する。
 独我論が不必要なもの・無意味なものとして放逐したはずのものは、捨て去れずに残る。
 六分儀ゲンドウは碇ユイを綾波レイに見てしまい、舞には佐祐理がいて、浩平は消えることを恐れる。ゲンドウのこの『至らなさ』によって、人類補完計画は少なくともゼーレの企画したような純粋な形では維持されない。祐一が現れなくても、舞は佐祐理と共に何とかやって行けたかもしれない。消える時点では(そして、多分最初から)永遠を信じていない浩平は司とは違う。
えいえんと日常の矛盾
 浩平の場合。
 みさおとの楽しい日常(に見えるもの)は、病院という特殊な環境(病院と監獄のなんと似ていることか! (*1))に加え、みさおの近い将来での死が前提されている。一方、瑞佳との出会いの後で発見された日常はそうした「特殊な場」や「終末」を前提としていない。この矛盾の解消として、「えいえんの世界」への旅立ちが行われる。
 「えいえん」なんてなかったんだ、という言葉は、楽しい時間は必ず終わること(この「終わる事」が楽しさを演出していること)を示すのではない。彼が瑞佳や他の登場人物と発見したの日常の楽しさは、淡々と過ぎ去っていく中に存在していて、「終末」の前提を必要としない。「えいえん」がないということは、「終末」を前提としなければ楽しさはない、ということの否定。

 ネルフの場合。
 ネルフは、人類補完計画(=日常性の否定・えいえんの建設)を目的として創設されながら、実態として極めて幸せな、ひみつ組織のひみつ基地(ひみつが平仮名なのが重要)のような、組織になっている。(*2)
 彼らは「人類の敵」との終わらない戦争を戦う。それは「革命は常に進行中」な革命や「千年帝国の建設」のための戦争と同様である。そして、ついに手段は目的化し、本来の目的であった(ゼーレの)人類補完計画が成就しようとするとき、それに対抗し戦う。
 ミサトやアスカとの虚偽に富んだ日常に楽しさを見出したシンジは一瞬であったとしても、孤独を忘れることが出来た。
 ゼーレが計画した人類補完計画は、日常性に頽落し快楽に溺れている人類の補完であったはずだが、まさにその実行機関であるはずのネルフ自身がそのような日常性に頽落してしまう。
 二次大戦において日常の快楽の権化たる米国と偉大なる第三帝国が戦ったことと、どう関係するかは興味深い点である。

他者との関係
 EVAもONEも他者との関係に関する物語り(物語というには作者が前面に出過ぎているため、物語り、と表記すべきだろう (*3))であるとは、言える。
 だが、それは他者との関係の「構築」の物語りではなく、他者との関係の「発見」の物語りであるというべきだ。一見、他者との関係を拒絶している彼らにも、浩平に長森が、茜に詩子が、舞に佐祐理が、綾波にゲンドウが、いる。
 彼らは、他者との関係を持っていないと思い込んでいるだけで、「私には何もないもの」という言葉は、自分に他人を見ている視線や実験動物としてしか見ない視線の中にでさえも、関係性の萌芽が確かに存在していることを見逃している。
 他者との関係は、別に新たに作り出す必要もなく、そこにある。「フロレアール〜すきすきだいすき」の最終幕で、まったく唐突にウィトゲンシュタインの言語ゲームが出されてくるのは、そう言うことである(とも言える)。
現実に帰れ、というスローガン
 アニメやゲームの観客に「現実に帰れ」というメッセージが、ここに現れていると見ることは、可能なのか。(そもそも「現実」なるものが何物かなのかについて、殆ど反省もないままに語られていることが気に食わないのだが、それは置くとして論を続けよう。)
 「現実に帰れ」であれば、恐らく妥当な表現であろう。だがそれは、それ以上の限定を施すべきではない。EVAはアニメオタクやめろとまでは言えないし、ONEは美少女げーやめて現実で彼女を作れと説教たれることは出来ない。
 独我論は不可能なのだ。内にこもることは、他者を取りこみ、自己とみなしているに過ぎない。オタクにも他者は存在するし、アニメやゲーム相手に恋愛することは不可能ではない。アニメやゲームは何らかの他者性とのコミュニケーション媒体とは言えないか。
 「現実に帰れ」とは、避けがたく他者と向き合っていることを「発見」せよという事である。我々はオタクのままで良いし、彼女も作らず美少女げーやっていて良いのである。
 もちろん、現実に帰るべきであるのはオタクだけではない。このSSもこの方向性で書いた。
追捕 (雪駄さんの指摘に関して)
「ボクはちゃんと思い出を背負って生きていたいって
 たとえばそれが悲しい思い出でも
 ボクを痛めつけるだけの思い出でも
 いっそ忘れたいって願いたくなる思い出でも
 ちゃんと背負って逃げないでがんばれば
 がんばってればいつか……
 いつかそんな思い出に負けないボクになれるって
 信じてるから
 信じて…いたいから
 忘れていい思い出なんてひとつも無いって思いたいから」
(高屋奈月, フルーツバスケット, 第23話, 紅葉の発言)

 「つらい現実」から逃避した浩平の母は、だからといって他者との関係性を喪失したわけではない。世間から見ればまともでない生活形式を持っている新興宗教も、何らかの日常性を持っており、他者と関係している。これは、オウムでの生活が異常な形であれ日常性を持ったものであったことも示している。無論、このオウムという固有名詞はナチズムや共産革命や、あるいは高度経済成長やバブルとも言いかえられうる。
 浩平の母が新興宗教に走ったことは、浩平が長森の言葉にすがったことと、類似している。浩平の母に言えることは、浩平にも当てはまる。あるいは、浩平の母もまたその逃避先で「癒されて」いたかもしれない。作品中にはまったく書かれないが。
 この二人が異常に見えるのは、浩平と母との関係が殆ど断絶してしまっている点にある。だが、それは過程の副産物であり、目的ではない。彼ら二人は、それぞれとみさおとの関係に注目しすぎたのだ。
 ただ、浩平の母のほうがより早く「逃避した」ということはある。母が去ってから、みさおが死ぬまでの時間では、「母に捨てられた」と浩平が感じたことはあるだろう。だが、その短い時間に浩平が母を許す境地に至ったとは思えない。そして、みさおの死によって、「母に捨てられた」ことは殆ど無意味になっている。
 だから、この点で浩平はシンジとは異なる。もし浩平とシンジが似ている点があるとすれば、シンジと両親との関係は浩平とみさおとの関係に対応することによる。
注釈
1、これに関しては熊野師の授業でネタ入手。「狂気の世界史」も似たようなことを指摘しているかも。
2、ネルフに関しては、下のリンクの友人くわね氏の文を参照。「革命は常に進行中」も彼が高校の国語の授業で書いた物からネタを貰ったのだけど、さすがに公開されてません。
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/2255/kwrep-maya1.html
3、これは野家師の「[岩波]新・哲学講義8-歴史と終末論」にあるものを改造転用。
 2000/02/04 現代哲学のレポートと混同しつつ、本文を書く
 2000/02/06 文頭の引用文を付加
 2000/02/11 追捕を付加
  罵倒で良いのでメールください






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