私たちは体験したすべてのものを所有したい。


ONEからさめない


text by くわね(kuwane@fc4.so-net.ne.jp


#7 Linked Ring

 向かいの席に誰かが腰を下ろした気配がしたので、私は左手の袖であわてて涙を拭い、再び6ミリのピッチで打たれた点字に指を走らせた。
 でも、動揺した心に、その指は何も伝えてくれなかった。
 簡単なことに、「万物は流転する」というそれだけのことにやっと気がついただけなのに、私はどうしようもなく打ちのめされていた。
 今はまだ分からないけれど、その時が来てしまえば、私の前からだけでなく、私の中からも浩平君はいなくなってしまう。消えてしまう。
 下を向いたまましばらくそんなことを考えていら、まわりの空気が動いた。
 ほんの少し間があって、左斜め前から「あの」という可愛らしい女の子の声がして、その右隣、つまりは私の正面の席から「あ、すみません」という今度は男の人の声がした。
 その男の人の声に聞き覚えはなかったけれど、どこか懐かしい感じがした。音に含まれている「成分」のようなものが浩平君の声に似ている気がした。
 先ほどの声につづいて正面からはかさかさ、という乾いた音と椅子を動かす音、机の上のものをまとめる音などが続けて聞こえた。男の人は、なにか気まずいことでもあったのか、どこかへ行ってしまったらしい。
 それに重なるように、30分を知らせる「ぽーん」という音が聞こえてきた。
 さっきは4つ鳴ったから、4時半だ。

 それから15分。
 結局貸出時間ぎりぎりまで閲覧室の椅子に座っていたら、「あれ?みさきちゃん、まだいたんだ」と深町さんに声をかけられてしまった。
「なんだか、立ち上がるのが億劫になっちゃいました」
 私が答えると、深町さんは「なにを言っているんだか」とでも言うようにため息をついた。
「みさきちゃん、今日、ノート持ってきてたっけ」
 突然、深町さんが私に聞いた。
「みさきちゃんの前の席の人かな?なんだろう」
 深町さんが動く衣擦れの音と、ノートを机から取り上げる音。
「おりはら、こうへい、ってみさきちゃん知ってる?」
 知ってるわけないよね、と深町さんが小さな声で読み上げたその名前に、私は少し大きな声で反応してしまった。
「あの、漢字を。名前の、漢字、教えて貰えますか」
「え、いいけど。枝を折るの折るに、はらっぱの原。それにさんずいに告知するの告の「ひろ」で、たいら、だよ」
「私、その人、知ってます。あの、帰りに、私が届けますから、貸し、じゃなくて、預からせて貰えますか」
 はやる気持ちを抑えて、言葉を選びながら、私は深町さんに言った。
 言いながら、さりげなく、さりげなく、と自分ではしているつもりだったが、絶対におかしいだろうな、と思った。でも、少なくとも私は必死だった。
 もし他の人のノートだったらすごく悪いけれど、そんなことは構っていられなかった。
 目の前に証拠が存在しているかもしれないのだ。浩平君がここに、この世界に、ちゃんといたのだという証拠が。
 深町さんがまた、ため息をついた。何かを諦めたようなため息だった。
「みさきちゃんがそこまで言うなら仕方ないから、預けてあげる」
「深町さん」
 一つ深呼吸。
「ありがとう、ございます」
 
 家に帰った私は、すぐに雪ちゃんに電話をした。
 年の瀬で忙しいのにごめんだけど、今すぐ家に来て貰えないかな。
 そして、家に来た雪ちゃんに、ノートを読んで貰った。
 彼女はいつもの通りにちょっと文句を言った後、さすがに元演劇部らしい上手な読み方でノートのを読んでくれた。
 そのノートのタイトルは「動物園襲撃計画」。雪ちゃんによれば駅から少し歩いたところにある公園に付属する、小さな動物園がそのターゲットだと言うことだ。
 その公園は、私が浩平君に最後にあった場所で、そういえばあのとき彼が「動物園行かない?」と誘ってくれたんだっけ、と思い出した。
 雪ちゃんが読み上げる計画を聞きながら、私は止まっていた時間がまた動き出すような、そんな空気を感じた。



        つづく







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