主よ、汝は我を摘み捨て給う
主よ、汝は摘み捨て給う


ONEからさめない


text by くわね(kuwane@fc4.so-net.ne.jp


#9 雪の中で

 夕方、私は二年越しの初詣に行くんだ、とお母さんとお父さんに嘘をついて家を出て、一人ファーストフードの固い椅子に座ってノートのページをめくっていた。
 何のためにあの場所に行ったんだろう。どうしてあんな提案をした自分が分からなかった。
 ふたつの嘘をついた罪悪感がスピーカから流れてくる静かな音楽と人の声が支配する空間を居心地の悪いものにしていたけれど、私はノートに集中することでなんとかその場での自分を保っていた。
 書いてあることは見えないけれど、空気だけでも感じようと思ってノートのページを繰りながら、あの日浩平君が私を動物園に誘ってくれたことを思い返した。
 何か関係があるんじゃないか。今更ながらにそう思った。
 そして動物園を思い浮かべた。
 梅雨に入る直前の水曜日、私は雪ちゃんについてきて貰って、浩平君の言った公園に付属する小さな動物園を訪れた。
 そこは幼稚園と小学校の遠足で、何度か遊びに行ったことのある場所だった。
 小さいなりに猿山があったり、象がいたりしてそれなりに充実した動物園で、私が最後に訪れたときの記憶にはない建物もいくつか増えていた。
 たくさんのリスが飼われている建物がそうだった。
 大分夕方だったけれど、子ども達の歓声がしたのが印象的だった。
 もうすっかり冷めてしまったコーヒーをすすって回想に一息ついたとき、私は左手に人の立つのを感じた。
「ノート」
 少し幼い感じの残る、女の子の声がした。
 何かに困惑しているような声だった。
「浩平の、ノート………。それは、浩平のノートなの」
 私が何も言えないでいると、女の子は続けた。
「なんで、持ってるの?」
 私の左肩にその子の手が触れた。くいくい、と二回、引っ張られた。
 あなたは誰なの?、そう聞いているようだった。
「私は、川名みさき。あなたは?」
 返事はなかった。
「なんで、持ってるの?」
 その代わりに、もう一度女の子が呟いた。
 ひどく傷ついたその声に私はどうしていいのか分からなかったけれど、女の子が動きかけた気配に、思わずその手をつかんでいた。

 いつも図書館に行くときに乗る路線の最終バスの車内はとても静かだった。
 聞こえるのはディーゼルエンジンの低いうなり声だけで、たまにウインカーの立てるカチカチカチという短い周期の音や運転手さんのする咳の音がそれに加わるだけだった。
 いつもと同じバス停で私はバスを降りる。
 顔に冷たいものが連続して当たったけれど、周りからは不思議と音がしなかった。ただ、傘を広げると雨が当たる音とは明らかに違う音がした。
 私は昨日の晩の天気予報を思い出した。
「このように非常に発達した寒気団が南下するために、平野部でも夜半にかけて雨が雪に変わることがあります」
 一人納得すると、私はゆっくりと図書館に向けて歩き出した。
 路上の点字ブロックを探る杖の音も、今日は雪に吸い込まれるのか普段よりは幾分静かに思えた。
 図書館の前で、私は少し立ち止まった。動くものの気配は感じられなかった。
 誰もいないのかな。
 腕時計のボタンを押すと、合成された音声が時間を教えてくれた。
 約束の時間には、少し早かった。
 私は雪を避けるために入り口の自動扉の前に張り出した屋根の下に入ろうと思って、階段をのぼった。
 登り切って屋根の下に入ったところで、その杖の先にやわらかいものが当たった。
 人?
 傘を置いてあわててしゃがみ込むと、少し湿ってはいるがジーンズのような手触りを感じた。
 肩だと思うあたりをつかんで、シュン君?と何度か呼びかけると、シュン君のささやくような声がした。
「繭」
 え?と思う間もなく、強く抱きしめられた。
「もう、どこにも行くなよ」
 私は膝立ちの様な姿勢で、彼に体重を預けた。
 コンクリートの冷たさが、ストッキング越しに伝わってきた。
 たぶん、時間にすればすごい短い時間だったと思うのだけれど、私はそのまま動かなかった。
「シュン君、私、みさきだよ」
 ようやくそれだけを言うと、私を抱いていた腕の力が緩むのが分かった。それを感じながら、なぜだか私はとても悲しかった。
「先輩?」
「ごめん」
 ようやく目を覚ました彼に、私は謝った。
「ごめんね。あのノート、もう、ないんだ」
「ないって?」
 立ち上がりながら、私はノートの行方を告げた。
「もう、捨てたから」
「どうして?大事なものだって」
「大事なものならちゃんと大事なものって扱えばいいじゃない」
 私は少し大きな声を出してしまった。そしてまた、コンクリートの上に崩れ落ちた。
 返事はなかったけれど、その代わりに彼は手を差し出してくれた。
 暖かい手だった。
「そうだね、僕はいつもそうやって大切なものをなくしてばかりいる」
 誰に向けるとでもなく、シュン君が呟いた。



        つづく







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