記憶とパーソナルアイデンティティについての考察
シューメイカーの擬似記憶の考えでは、他人の経験を私が記憶できると仮定した上で、徐々に他人の記憶と私の記憶を置き換えていく事で、最終的に他人の記憶を私が持つという状況を作り出せるとしている。この思考実験を元に記憶とパーソナルアイデンティティについて考察する。
さて、この思考実験が記憶が一瞬にして他人のものと変化するだけのものであれば、問題とすべき部分は多少軽減される。すなわち、その場合は「世界が5分前に作られた」とか「<<私>>性のみが一瞬にして他人に移る」といった検証不可能で無意味である思考実験と同様の部分を持つからである。
この思考実験では一瞬にして他人と私の記憶が置き換えられるのではなくて、「徐々に」置き換えが進む点が問題となっている。全体としての齟齬をきたさないよう記憶の小さな部分を他人のものと置き換えていく。これによって、ただ単に世界がそこから開ける点としての<<私>>性という見地からだけでないような仕方で、私が他人の記憶を持つという状況が作り出されると主張される。
ここで、私の記憶と置き換えられる他人の記憶は、"Someone did have this experience."と定義されるが、この定義において問題となっているのは記憶の全体ではなく部分である。そうであるから、部分となる単位では世界の中の誰かが実際に体験した事についての記憶である必要があるが、その部分が集積した全体としては世界の中の誰かの全体としての記憶に合致している必要性はない。つまり、A氏の記憶の一部分とB氏の記憶の一部分とを組み合わせて、整合性のある記憶の集積を作れるのであれば、それを私の記憶と置き換えられる他人の記憶として採用しても良いといえる。
そうであるとすると、「徐々に」置き換えられるという想定は、私の記憶の一部分と他人の記憶の一部分とを組み合わせて作られた可能的な記憶へと「一気に」置き換えられることの連続であると言えないだろうか。「徐々に」と主張されていたとしても、この思考実験もまた検証不可能で無意味であると言えないだろうか。
だが、「世界が5分前に作られた」や「<<私>>性のみが一瞬にして他人に移る」とは異なり、擬似記憶の思考実験や一瞬にして私と他人の記憶が置き換えられるという思考実験には、「私が失われる」と直感的に感じられてしまうところがある。これは、講義中でも指摘された自分の意思や他者との約束などといった心理的要素が関わっているのではないか。以下、その事について考察したい。
さて、自分の意志や他者との約束は、三つの点で記憶とは異なっている。
第一には、記憶はある時点での心理的状態であるのに対して、意志や約束といった心理的状態はある時点からの心理的状態であることである。
記憶は現在とは究極的には無関係な存在である。記憶は過去のある時点に関して「その時<<私>>であるとはどうであったか」を記述し、それは「現在<<私>>であるとはどうであるか」とは無関係である。擬似記憶の思考実験がナンセンスでは無い事がその証左である。余談であるが、擬似記憶の思考実験を推し進めるならば、SFやファンタジー作品に見られるような「未来視」や「予知」も記憶に類するものとして理解できる。ともあれ、時間軸上で現在がどの時点であるかと、ある記憶がどの時点であるかは、無関係である。一方、意志や約束は過去のある時点から現在へと続くものである。つまり、それらは現在との関係を常に持っている。そして、現在は常に時間軸上で前進していくものである以上、意志や約束は未来のある時点にも関係している。
第二には、記憶が偽である事はありえても、意志や約束が偽である事はありえない点である。
記憶の場合、「未来視」や「予知」が記憶に類するものと考えられるように、他者や外界からの検証に耐えられないようなものであっても、成立することが出来る。擬似記憶ならぬ、偽記憶という思考実験もナンセンスではない。だが、偽意志や偽約束などという想定はナンセンスである。「意志を持っていたという記憶」「約束をしていたという記憶」が偽であることはありえる。だが、「私はある事を意志している」や「ある約束を遂行している」などは内容的にも形式的にも偽ではありえない。
第三には、記憶はあくまでも個人的なものであるのに対して、意思や約束は何らかの形で外界や他者へと志向し関連する点である。
記憶は、第二に挙げた偽なる記憶がありえるように、外界や他者からは検証されない、あるいは反証されるようなものであっても構わない。だが、意志や約束が外界や他者から検証されないものではありえない。約束は常に誰かとの約束であり、意志もまた自分に対する約束と呼べる
以上の三つの記憶と意思・約束との差異から、次のような事が言える。意志や約束は過去のある一点にのみ限定されるものでは無く、常に現在そして未来との関連性を持っている。そして、それらの内容は端的に真であり、外界や他者による検証にも耐えられる。意志や約束は過去と現在を関連付けていくものであり、記憶がただ単にある時点での記述に止まるのに対し、未来構成的なものと呼べるだろう。「未来のある時点で<<私>>であるのがどうであるか」という事は多くの可能世界としてあるが、それら諸可能世界の内から一つが現実世界として選択されるにあたって、未来構成的な意志や約束が機能する。
パーソナルアイデンティティを与えるのは、記憶の統一性でも身体的統一性でもなく、未来構成的な意志や約束である。記憶の統一性で与えられるのはせいぜい「正当な過去から連なる現在の私」である。だが、未来構成的な意志や約束で与えられるパーソナルアイデンティティは、未来の正当性をも与える事が出来る。このようなパーソナルアイデンティティの特性があるために、前述したような直感的な違和感が感じられるのだろう。
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