超人思想
「Gott tot ist」とニーチェは語る。神は死に、自らの力で一切の価値を常に書きかえる超人の時代になったとする。ここでの神とは、近代キリスト教的な神である。唯一絶対の神は唯一絶対の行動基準を強制する。この神は「汝為すべし」と言う語によって表される。それに対して超人は自らの意思をもとに行為する。それは「我は欲する」である。
現代の我々は「汝為すべし」のような神を持たない。しかし、超人でもない。むしろ、我々はニーチェが超人に対置した「おしまいの人々」のようなありかたをしている。偽善と現状維持、馴れ合いと相互依存によって成り立つ「おしまいの人々」に対する批判は確かにその通りである。ツァラトゥストラが描いて見せた「おしまいの人々」のあり方は、確かに我々が理想的なものとして信奉しているものである。
しかし、「おしまいの人々」のありかたを捨てて、超人の生き方を選択することは困難なものである。既存のものを絶えず乗り越え、新たなものを創造していくことは困難であり苦痛である。「おしまいの人々」の生き方へと逃避したくなるのも当然だ。また、ナチズムがニーチェの思想を自己正統化に利用したように、超人の生き方を表面的に解釈してしまえば独善にもつながる。
超人の生き方の持つこのような危うさは、他者に関する問題が欠落しがちであることから来るように思える。超人の生き方では、自らの行為の反省は、自らによってのみ為される。そして、他者からの「汝為すべし」によらず、自らの「我は欲する」によって、自己を乗り越えていく。しかし、深い山中に独り隠棲するのならばともかく、我々の周囲は他者で満ちている。ツァラトゥストラが「序説」で直面したように、他者は我々に対して異議申立てをしてくる。そして、他者の「我は欲する」と自己の「我は欲する」の対立が争いを生む。
この問題に関して、死亡宣言が為された神を再び吟味する必要があると思われる。超人思想において、近代キリスト教的な神を否定したのは間違いではない。しかし、神のより根源的な意味をも捨て去る必要は無い様に思える。
近代キリスト教は世界宗教であり、人間全てにとっての「汝為すべし」であった。そして、近代キリスト教を基として成り立つ近代西欧の理性にとって、神を共有しないもの=異教徒は存在しない。そこにあるのは、精神の病人=狂人と知性の足りないもの=野蛮人である。
しかし、元来、神は全ての人々に共通する唯一の存在ではない。ユダヤ、ギリシャ、ローマと言った民族・部族単位の神がキリスト教のような世界宗教に先だって存在した。
キリスト教にしても中世以前では神は1つではなかった。公会議による正統異端の選別が「神」を1つに収束させ、世界宗教としての統一性を確立したのである。
そもそも、神の本来的意味とはなにか。他者をもっとも極端に表すものが神、と言い得るのではないだろうか。他者のもつ理解不可能性や無限性、絶対性を端的に示すのが神である。そのような面を持つからこそ、神による「汝為すべし」が可能なのである。
人間が相手の場合には、「私」はそれに対して他者性と同時に共通性をも感じる。しかし、神は「私」と完全に隔絶した存在である。理解を超えて、信じるしかない存在が神である。この点は、キリスト教神学の無限思想や仏教の他力本願思想などにあらわれている。
また、神話の成立に関する仮定の1つに、自然現象を神との関連性で説明すると言うものが有るが、これは自然現象を神との関係性で説明しようとする試みである。これもまた、他者性を神へと還元する試みと言えるかもしれない。
この点にたち返り、究極の他者=神を再認識することは、他者の何らかの共通性を期待せずに自己の意志で創造していくことや、独善や自己満足に陥らずに創造を繰り返す上で、重要なことであろう。
また、超人思想は「汝為すべし」を否定するが、これは最小限の倫理も価値も捨て去り、共通のルールなど無いと言うことだろうか。ある意味ではそれは正しいが、基本的にはそのような点に着目した問題ではない。
この否定が着目する問題点は、「私の(我々の)神に従え」と言う部分にある。あるいは、精神の三段の変化に書かれている様に、独立した1個の生命体(=ドラゴン)のようになった神による「私に従え」である。
柄谷行人は『探求1』で「独我論とは私にいえることが万人に妥当するかのように想定されてているような思考」と語っている。これによるならば、超人思想がここで否定するのは独我論的思考だといえる。
一方、超人思想が共通の倫理や価値といったことを拒んでいるのも確かである。
しかし、意志の力による「我は欲する」に基づく行動では結局、力と力(ここでいう力は肉体的なものには限らないが)の争いになってしまうのではないだろうか。
世界では多様な人間や集団が同じ土地に生きている。この事が人々に争いをもたらす。山中に独り隠棲することは出来ず、この世界の中で生きるしかない以上、この争いは避けがたい。
このような争いの中で、何らのルールも無いとすれば強者のみが生き残る結果となる。この状況は社会契約説での原初状態、すなわち「万人による万人に対する闘争」とは異なる。この争いは生存競争によるものではなく、主義主張の相違によるものだからである。
生存競争による争いであるならば、行動規範を共存可能なものへと変えることで争いを収めることが出来る。しかし、その行動規範に縛られないことを目的とした「我は欲する」の相違が原因となるこの争いではそれによる解決は出来ない。
この問題に関しては、解決策は無いと言うより他は無い。全てが異なる存在が自らの意志する方向に行動する時、そこに発生する争いを収めることは不可能である。
ただし、実際には自己と他者の何らかの共通性を見出したり、まったく異なる存在が相互に信頼できたりすることがある。これは他人が他者性と共通性を併せ持つ存在であることによる。
生物学上のヒトとしての共通性を根底として、言語や過去の体験、歴史的背景を共有しているため、他人は何らかの形で自己との共通性を持つ。これは、何らかの共通性から出発して、他人を理解しようとするものである。
また、他人の持つ他者性に対しては理解は不可能であるが、神への信仰のように他者性から出発して他人を信じることが出来る。他者に対して自己を提示して、飛びこむこと、これが信じると言う行為である。
この理解することと信じることの2つの方法は、究極的には信じることが先に立つ。共通性のまったく無い他人は想定できるが、他者性の無い他人はありえないからである。
超人思想が描く世界像の中でも、この「信じること」は有効であろう。この世界の中での争いを回避する方法があるとすれば、それは「信じること」である。そして、この「信じること」は超人の生き方にも通ずるものがある。「信じること」には超人の持つ力強い意志の力が必要であろう。
現在の世界の状況は、近代理性の慣れの果てである「おしまいの人々」と「我は欲する」のみを追及し「信じること」を忘れたことによる争いに満ちている。このような状況に対して、再びニーチェを問い直すことは単なる現状分析以上の意味を持つだろう。
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