哲学と神・必然性と自由

C.F (c.f@ijk.com)


哲学と神について

 少なくとも近代においては、哲学をすることは、神を否定する事でも神から自由になる事でもない。
 そして、哲学をなした結果、神を信じるのではない。神への信仰が哲学に先行する。神への憧れが哲学へと誘う。実体のある宗教での神に限らず、ジンメルが書いているような、およそ愛情の向かう対象全て、この愛情の対象への、信仰や憧れがなくては、哲学は成り立たない。

 近代、哲学は神を求めた。存在や価値を問いながら神を求めるのは、その問題のワイルドカードが神だからではない。彼らはその問いを通して神へと近付こうとした。哲学という行為は神への愛情の現われであった。
 近代の終焉は神の死である。近代以降の我々は神を目指していた頃の哲学に見え隠れする神への愛に混乱する。だが、たとえ神が死んだとしても愛情の対象一般が消滅したわけでも、愛する事が消滅したわけでもない。
 ここで指摘されているように、神への憧れと愛情の対象一般へのそれとが比する事が出来る。神への憧れを背景に書かれた近代の思考は、神ではないにせよ何かにあこがれる事を知っている我々にとって、決して異質な理解不能なものではない。

「それとも君は愛するものなど何もないというのか」

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必然性と自由に関して

 必然性は否定できない。近代科学が危機を迎えようとも、更には科学が社会学や歴史学の対象になってしまうとしても、日常性と言う名の必然性は時間を経てもなお存在する。必然性は自由と対立し、「私にはどうに出来ない」ものである。

 必然性・日常性の打破として、祭典や戦争や革命が起こされる。しかしそれらは長続きしない。19世紀までのそれらはすぐに終結してしまい、再び日常の必然性の支配する世界へと帰っていった。20世紀になって、千年帝国の建設を唱える戦争や「革命は常に進行中である」と称する革命が起こった。これらは、必然性・日常性を打破しようと試みたが、戦争も革命もすぐに日常化し機械化し、必然の連続に変わった。そうして終には新しい戦争と革命にとって変わられたのである。
 こうした試みは自由への試みだった、そう言う事は出来るだろうか。彼らが作り出したものは自由などではない。それは、結局の所、彼らにとって居心地の良い日常でしかない。彼らにとって居心地の良い日常は、それを居心地が悪いと感じる人々によって破壊された。そうして、誰かにとって居心地の良い日常が始まった。

 自由とはどこにあるのか。
 必然性はあまりにも大きく強い。必然性の因果法則の中に我々は拘束され、自由など全く不可能な事のように思える。必然性の打破でさえ、必然性に帰結し、そしてその試み全体は必然性の中に還元されてしまう。
 自由が可能だとすれば、その必然性を知りえたことに最後の希望を見るより他はない。その事自体もまた、必然性の連環に組み込まれてしまうのかもしれない。だが、少なくとも実践的な局面では、必然性について知っているという事が自由を可能にする。自由意志が可能な唯一の局面とは、自らの意志で必然性を知り承認する事だからだ。

 自由な人間とは、必然性を拒否し壊し新たな必然性を作り上げ、終には敗北する人間ではない。自由な人間は、あまりにも不条理な避け難さの中でも、笑ってそれを受容する。







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