彼女のいた空

text by くわね(kuwane@fc4.so-net.ne.jp



昭和20年8月3日 1100時 福岡県 蓆田飛行場

「藤田少尉殿」
 掘建て小屋とそう変わらないピストの入り口から、直立不動の姿勢の整備兵が浩之に声をかけた。その瞬間まで、机の上に足を伸ばし、半ば寝そべるようなだらしのない姿勢で眺めるともなく夏の空を眺めていた彼は、あー、とやはりだらしのない返事をすると、勢いをつけて体を起こした。
「隊司令殿がお呼びです」
 浩之の、今にも暑さで溶けそうだといわんばかりの様子とは対照的な整備兵の言葉に、すぐ行く、とだけ返すと目の前に置かれていた湯飲みの、すっかり温くなった麦茶を一息に飲み干し、彼は立ち上がった。
 出がけに他の搭乗員に軽く会釈をすると、なにかやったのか?、なんにせよ、難儀だな。そういうニュアンスの仕草が返ってきた。

「藤田浩之少尉、出頭しました」
 必要上の理由から窓ガラスに×の形の紙テープが貼られていることと、八幡大菩薩を祀った神棚が置かれている以外に、特に装飾といえるものが見あたらないような質素な内装の司令室の主である山岡飛行隊司令に、浩之は敬礼をした。
「おぅ。来たか」
 痩身にくたびれた三種軍装を着た山岡はそう言いながら答礼をすると、何もいわずに一枚の通信紙を浩之に差し出した。
 いつものことなので勝手に休めの姿勢になっていた浩之はそれを受け取るとざっと目を走らせた。
 それは、転属命令だった。
「松山に転属、ですか」
「新設の戦闘機中隊らしい。正式な辞令はあとから届くそうだ」
 面白く無さそうに山岡がいう。
「新型機への転換訓練だそうだ」
「今さら、ですか」
 浩之は、思わず口にする。
 山岡はそれをとがめることもなく、うなずく。
「ああ、今さら、だ。お陰でこっちは優秀なのを一人とられちまった」
 つまらなそうな顔から発せられた、自分を誉めているのだろう言葉に、浩之は苦笑する。
「上の方も大分急いでるみたいだからな。「可及的速やかに」だそうだ。貴様のいつもつかってるやつ。あれに乗ってけ。整備は済ませてある」
 その他、事務的な連絡事項等を告げたあとで、最後に、山岡は精一杯の笑顔を作って浩之に言った。
「ま、少なくとも貴様が乗るのは確実に「戦闘機」らしいからな。せいぜい楽しんでこい。よし、別れ」
 浩之は飛行靴の踵をあわせると、「戦闘機」だったはずの飛行機、あるいは「攻撃機」だったはずの飛行機に乗って、特攻に行った予科連の同期生の顔を思い出しながら、山岡に敬礼をした。


同日 1400時 豊後水道上空 4000メートル

 浩之は愛機である紫電改のコクピットにおさまって空中にいた。
 雲量はほぼ0。快晴と言って良いだろう。
 眼下には陸地に挟まれた帯状の海。豊後水道と瀬戸内海だ。海面は穏やかで陽光をうけて輝いていた。時々見える小さな点のようなものは漁船だろう。
 浩之の乗る紫電改のエンジンは、浩之にとっては父親といっても良いほどの年のベテランの機付き整備員が餞別代わりに気合いを入れて行ってくれた整備のお陰で、最近いよいよ品質の悪くなってきている航空燃料にも機嫌を損ねることなく快調に運転を続けていた。
 いいね。
 コクピットの中、浩之はひとりごちた。
 空を飛ぶ時はこうじゃなくちゃいけない。
 今回の飛行がほんの短いものであるため、増槽なしでの飛行であるということも浩之の機嫌を良くしていた。だが、同時にそんな贅沢な時間はそうそう長く続かないことは理解している。
 そろそろかな。少し残念そうに浩之はマイクに向かって声を発した。
「ツグミより先生。現在位置姫島上空4000メートル。着陸許可を求む」
「先生よりツグミ。着陸を許可する」
 空電の中から苦労して松山基地からの声を聞き取ろうと少し顔をしかめたとき、浩之の目がなにか光るものを捉えた。
「ツグミ、先生。友軍機が豊後水道上空にいるという情報はあるか?」
「先生よりツグミ。友軍機が上がっているという情報はない」
「ツグミ、先生。敵機編隊を発見」
 さて、どうしたものだろうか。
 浩之は考える。敵機は複数。こっちは単機だ。喧嘩を売るにはちょっと心細い。
 その間にも、機体に旋回をかけながらゆっくりと上昇させ、エネルギーを稼がせるのは忘れない。
 戦うにせよ、逃げるにせよ、高度があって損になることは殆どない。
 敵機の正体が分かる。グラマンが4機。飛んでいくのは南。一仕事終えた後だ。
 なら。
「ツグミ、先生。これより敵編隊に攻撃を開始する」
 こっちが見つけているにも関わらず、敵に動きがないということは余程の素人か、燃料に余裕がないか。素人なら蹴散らせる。燃料がないなら勝手に逃げてくれる。
「いくぞ」
 一言気合いを入れて、先頭を行く機体に狙いを定め、セオリー通り斜め下方から攻撃を掛ける。さすがに気がついたと見え、グラマンの編隊が乱れる。
 だが、少なくとも先頭を進んでいた機体には遅すぎた。
 浩之の機体から放たれた銃弾がコクピットを中心に命中する。
 グラマン<鉄工所>製の強靱な機体とはいえ、20ミリ機関銃の直撃を喰らってはひとたまりもない。あっという間に火を噴き、そして、爆発。
 敵機は二手に分かれていた。そのうち、単機の方が浩之につっかかってきた。
 相方をやられて頭に血が上ったらしい。
 米軍機お得意の一撃離脱戦法をとるでもなく、闇雲に近づいてくる。
 浩之はそれをいなすようにかわし、背後に回り込み、一連射。
 グラマンは大きな火を噴いて墜ちていった。
「あと2つ」
 そう言ったとき、背後で爆発音がした。浩之は思わず首をすくめる。
 爆発音に続いてなにかが飛び去って行くのが見えた。暗緑色と明灰色、そして赤い円。
 少なくとも、友軍機に助けられたのだいうことは確かだった。
 なんだ、ありゃ。
 それは、前後逆さまに飛んでいるような機体だった。
 そんな機体は、浩之の知る限り一八試局戦<震電>だけだった。先月のはじめに、試験を行うためといって、蓆田に一機だけ持ち込まれてきたのを見たことがあった。
 渡辺飛行機から九州飛行機へと名前を変えた、どちらかといえば傍流の航空機メーカーが作り上げた高性能な迎撃戦闘機。三菱のハ43発動機を胴体の最後尾に推進式に置いた、エンテ式とか言う設計で、最高時速は時速およそ750キロメートル。スペースの空いた機首には30mm機関砲4門を集中的に配置した、夢のような戦闘機。
 しかし、アレが実戦投入されたって話は聞かないぞ。
 大体、さっきのにはペラがついてなかったように見えたしな。
 そこまで考えて、浩之は笑い出した。
 まさか、新型機って言うのは。
 敵機の姿も、先程自分を助けてくれた友軍機も、すでに見えなくなっていた。
 浩之は自分のとんでもない予想に口の端をゆがめたまま、贅沢な時間のわずかな残りを楽しむことにした。


同日 2000時 愛媛県 松山飛行場

 他の搭乗員がまだ着任していないため、がらんとした宿舎の部屋。その、一番窓際に置かれたベッドに寝転がって、浩之はぼぉっとしていた。そうして、今日一日の間に自分の身の回りに発生した環境の変化について、考えていた。
 これから転換訓練を受けるのは、予想通りジェット化された震電、震電改だった。そして、この転換訓練を受けるのは浩之だけではなく、いくつかの一線級の部隊から引き抜かれたパイロット達だということらしい。
 俺はどうも、エリートになったみたいだな。
 浩之はそう思った。そのおかげで少なくとも、蓆田にいたときより良いことが一つあった。飯が旨かった。
 まあ、旨い飯が食えるというのは悪いことじゃないよな。
 だけど。パイロットに女学生がいるなんていうのは何かの冗談だろう。
 そのことを知ってから数時間が経とうとしていたが、未だに彼はそのことをきちんと受け入れることが出来ていなかった。

「はじめまして、マルチと申します。よろしくおねがいします」
 着任報告に行った飛行隊司令の部屋でそう挨拶をした、幼い顔つきの少女は、浩之に衝撃以上の何かを与えた。
 階級章も何もついていない飛行服を小さな体に無理に着せられたような印象のある、マルチと名乗った少女。少女は、耳にあたる場所に白い、なにか飾りのようなものをつけていた。
 丸地、という名字なんだろうか、とどうでも良いことを考えていた浩之には、よろしく、そう返すのが精一杯だった。
「空の上では、一度貴様は助けられているようだからな、せいぜい仲良くしてやってくれ」
 そんな浩之の様子を見ていた飛行隊司令の長瀬中佐がそう言った。
「貴様がさっき空で見た震電改に乗ってたのがマルチだよ」
 何が面白いのか、口の端をにやにやとさせながら隊司令は続けた。
 浩之がマルチの方に視線を向けると、無邪気な笑顔があった。彼は何かをあきらめたような表情になると、右手をマルチに差し出した。
「先程はまことにありがとう。あらためて、よろしく」
 その右手を、こちらこそよろしくおねがいします、と元気よく頭を下げた後で握り返してきた手から伝わった彼女の体温は、浩之にはすこし冷たすぎるように思えた。



つづく







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