彼女のいた空
2
昭和20年8月5日 四国山地上空 8000m
浩之が着任して、二日が経った。来ると言われていたその他のパイロットは、未だにだれ一人として着任していない。
たった二人の実験飛行隊。しかもそのうち一人は、飛行帽も被らずに飛行機に乗る女の子ときた。
震電改に搭載された気難し屋のネ30ジェットエンジンが機嫌を損ねないように慎重にスロットルを開きながら、浩之は右の唇の端をつりあげた。
とはいっても、あいつ。俺より上手く震電改を乗るからな。
その理由を、着任したその日の夜に、浩之は松山飛行場にいるもう一人の長瀬、海軍第七技術研究所の技官、長瀬源四郎から聞いていた。
その日、2100時を少しまわった頃、彼はやってきた。
右手に一升瓶を提げた男が、宿舎の、搭乗員に割り当てられた部屋の入口に立っていた。夏だと言うのによれた戦闘服の上から白衣を羽織ったその男は、右手の一升瓶を少し傾けるしぐさをしながら、一人する事もなく時代小説を読んでいた浩之に声をかけた。
「第七技術研究所の、長瀬と申します。本日着任された藤田少尉ですか?どうです、一杯?」
浩之は本から顔を上げ、木造の寝台から体を起こすと、長瀬と名乗った男に笑いかけた。隊司令にそっくりな人だな、と思う。
浩之が、157空から来た、藤田浩之少尉です。そう名乗ると、飛行隊司令そっくりの男も、第七技術研究所から来た長瀬源四郎技官です。と名乗った。浩之の視線が持つ意味に気づいたのか、彼は続けて言った。隊司令の長瀬中佐とは遠縁でしてね。それより。
長瀬は、一升瓶の中身をやはり彼が持ってきた二つの茶碗につぐと、話を切りだした。
「マルチには、お会いになりましたよね」
「会いましたけど」
「どう、思われました?」
浩之は当惑する。どうもなにも、なかった。
「女学生がいるなんて話は聞いてなかったな、と」
後頭部をかきながら、それだけ答える。
その様子を見て、長瀬は笑みを浮かべると、言った。
「マルチについては何も?」
「自分は何も」
そうですか。隊司令も人が悪い。そう言いながら、長瀬は空になった自分の茶碗に手酌し、再び口を開く。
「彼女、マルチはね、ロボットなんですよ」
その長瀬の言葉に、茶碗を口元に運ぼうとしていた浩之の手が止まる。
「震電改を操縦するためだけに作られた、いや、作ったロボットなんですよ、マルチは」
「それは、どういう」
「明日一杯、藤田少尉には簡単な座学と基本的な訓練を受けてもらって、明後日にはもう実機で飛んでもらうと思います。その時、分かりますよ」
もったいを付けた言い方の長瀬の言葉に、浩之は困惑するだけだった。そんな浩之の様子を気にかけることなく、長瀬は続けた。
「そのマルチなんですけどね。藤田少尉。マルチと、出来るだけ仲良くしてやってもらえませんか?」
丸眼鏡の奥から浩之を見つめる長瀬の目は、真剣な目だった。
「ツグミより先生。水平飛行終了。これより降下に移る」
マイクに向かってそう告げると、浩之は操縦桿を前に押し込んだ。翼にとりつけられたいくつかの補助翼が新たな空気抵抗を生み出し、機首が下がる。
降下角は浅いものの、速度は上がっていった。計器板にとりつけられた速度計の針がゆっくりと時計回りに進む。
加速するに従って振動がひどくなる。時速850キロメートルを突破した辺りで、右の方から不快な音がした。
浩之は、舌打ちすると機首を起こし、機体を水平に戻す。
「ツグミより先生。右主翼にシワ発生」
「先生よりツグミ。了解。飛行中止。帰投せよ」
ふと、浩之はマルチが操る機体がいるであろうあたりに目を向けた。ちょうど、機体を傾けてバンクに入るところだった。主翼に描かれた二つの日の丸が、ウィンクをしているようにも見えた。
やっぱりあいつの方が上手いな。浩之は思った。
つづく
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