彼女のいた空

text by くわね(kuwane@fc4.so-net.ne.jp



昭和20年8月15日 愛媛県 松山飛行場

 その日、多くの将兵にとっての戦争が終わった。
 日ソ不可侵条約を一方的に破棄して攻め込んできたソヴィエト軍を迎え打たねばならなかった一部の関東軍や、千島方面に配属された将兵にとっての短く、だがどうしようもなく悲惨な戦争はまさに始まったばかりであったのだが、ただ少なくとも、松山飛行場においての戦争は終わっていた。
 軍令部からの飛行停止命令があり、多くの人間は虚脱状態に陥っていた。
 飛行場のあちらこちらで、実験機の資料を焼却するための煙が上がりはじめた。米軍に渡すくらいならば、というわけだ。
 その煙を見ながらふと、浩之は思った。
 あいつ、どうするつもりなんだろう。
 マルチのことが気にかかった。
 宿舎の、彼女に割り当てられた部屋の扉を叩く。いつものような元気な返事はない。
 まさか。
 あまり物事を悪い方へとは考えない浩之には珍しく、悪い方へ、悪い方へと想像が膨らんでいく。
 気がつくと、浩之はマルチの乗る機体が納められた格納庫の前にいた。
「やぁ。来ると思ってましたよ」
 長瀬源四郎ののんびりした声が、浩之を迎えた。
 その奥に、震電改の機体と、いつも通り飛行帽を被らないでそのコクピットに収まったマルチの頭の先が見えた。
「おい、マルチ。飛行停止命令が出たのは知ってるんだろう?」
 マルチは、何も答えなかった。そのかわりに、ただ、悲しそうに首を左右に振っただけだった。
 浩之は機体の足元まで駆け寄り、何故か残されていた梯子に足をかけた。手慣れた手つきでコクピットまでそれを昇り、のぞき込むような形で、すでに各種のケーブルが接続されたマルチに声をかける。
「マルチ!」
「浩之さん」
 今にも泣き出しそうな顔で、マルチは浩之を見上げる。
「私、行かないといけないんです」
 そして、何かを決意した表情になり、告げた。
「長瀬主任は、資料を全部焼却したって言ってました。だから」
「だからって、なんで」
「米軍の技術力があれば、きっと、私の妹たち、弟たちは簡単に作れます。でも、作っちゃいけないんです!」
 普段のマルチからは想像もできない激しい口調で、マルチは言った。
「浩之さん、前に、聞きましたよね。空を飛ぶのは、楽しいかって。あのときは、わかりません。そう言いました。でも本当は、空を飛ぶ度に、私、すごく悲しかったんです。楽しくなんかないんです。……私が空を飛ぶのを許されるのは、他の誰かを殺すためなんです。人間の皆さんみたいに、鳥さんみたいに、飛ぶために飛ぶことは許されないんです。私だけで十分なんです。こんな悲しい思いをするのは!」
「マルチ………」
 マルチの勢いに圧倒され、浩之は何も言えなかった。
 行くな。そう言ってやりたかった。でも、そう言ったらいけない。というのも分かっていた。マルチがここに残っていたら米軍が捕獲して、徹底的な研究をされて、きっとマルチの言うとおり悲しい思いをするマルチの妹や弟を生み出すだけだ。
「浩之さん。ありがとうございました。他のパイロットのみなさんにも、整備員のみなさんにも、ほかの、基地のみなさんにも伝えて下さい。みなさんと知り合えて、私、幸せでした」
 浩之を見上げる姿勢は変えないまま、マルチは言った。笑顔だった。
 畜生。そんなマルチを見て、浩之は小さく呻いた。
 畜生、畜生、畜生。俺はこんな健気な女の子一人守れない。
「浩之、さん?」
 風防の端を握る浩之の右手に、まっ白になるくらい力が込められていることに気づいたマルチが、心配そうな声を上げる。
 瞬間。マルチの視界に浩之の顔が一杯に広がる。一瞬だけ唇に何かが触れたのが分かった。
 再び距離を取った浩之の顔が、なぜか真っ赤になっていた。
「ひ、ひ、ひろゆきさん?」
 一瞬遅れて自分の身に降りかかったことを理解したマルチが、うわずった声を上げる。
「俺が何言っても行くんだろ?だったら、せめて最後に、な」
「ありがとう、ございます」
「元気でな、っていうのは変だけど」
「はい」
 梯子の下の方を叩く音が聞こえてきた。長瀬だった。
「お別れ、すみましたか?」
 浩之はそこで初めて長瀬のはからいに気がついた。
「俺がここに来なかったらどうするつもりだったんです?」
「マルチが絶対に来るって言ったものですから」
 浩之と長瀬は梯子の上と下で、それぞれに寂しげな笑みを浮かべる。
「そろそろエンジンをスタートさせましょうか」
 少し間を取った長瀬の言葉に軽く頷くと、浩之は、左手で軽くマルチの頭を撫でた。そして、じゃあな、とだけ言って梯子を下りる。
「浩之さん!」
 互いの顔が見えなくなったところで、マルチが浩之の名前を呼んだ。浩之はまたはしごを昇りそうになるのをすんでのところで我慢する。
「本当に、本当に、ありがとう、ございました」
「馬鹿野郎」
 それが、浩之とマルチの交わした最後の会話になった。
 長瀬がスターターを作動させ、格納庫の中に、ネ30ジェットエンジンの金属質の騒音が響きわたる。
 浩之の手によって車輪止めを外された震電改のスマートな機体は、ゆっくりと格納庫の外へと動き出し、なにか質の悪い冗談のように晴れ渡った午後の空の下に出た。
 金属質の騒音がゆっくりと高まり、機体は滑走路を走りはじめる。
 日陰で惚けていた数人の整備員が、あわてて体を起こす。何を思ったか脱帽し、帽振レ、帝国海軍伝統の別れのあいさつを始める者もいる。
 その間も滑走を続けていた震電改は、滑走路を四分の一ほど残した位置でそれが本来あるべき空間、空中へとその身を踊らせた。
 濃緑色の機体は、真っ白な飛行機雲を残し、何かを振り切るように真っ直ぐに上昇していった。



(了)







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