「それは奇跡とは希望するものであり、
 定義によって予期されるべきものではないからである。」
      イヴァン・イリイチ(金子嗣郎 訳「脱病院化社会」)


<Kanon-1945>

#1 大きな樅の木の下で
くわね (kuwane@fc4.so-net.ne.jp)


#1-1
「祐一、女の子泣かした………」
Jan. 11,1945


 小隊の宿営地へ案内するよ。そう名雪に言われ、祐一は彼女と連れだって集落の道を歩いていた。
「名雪」
 祐一が視線を正面に向けたまま小声で呟いた。
「何?」
 何かを察したらしく、名雪もまた正面を向いたまま返事を返す。
「後ろ、何かついてきてるよな」
「そんな気もするかな」
「じゃあ、ついてきてるな」
 祐一は小さく頷くと、その場で体ごと振り返った。彼の視界の中でびくっと動きを止めたものがあった。白い雪の中に赤っぽい茶色と緑色の模様が浮き上がっていた。軍用の迷彩ポンチョのようだった。
「おい」
 祐一がそう声をかけた瞬間だった。ポンチョの中から影が飛び出して、彼に向かって走り出した。とはいえ、雪のためにそれほどスピードが速いわけでもなかった。
 よく見ると影は少女のようだった。二つにまとめた長い金髪が揺れていた。
 祐一は一瞬、腰のホルスターに手を伸ばしかけたが、やめた。見たところ武器は持っていないし、爆弾を抱えているようでもない。手が届くところまで少女が辿り着いたところでその頭を押さえると、少女はそのまま腕を振り回した。
 少女はそのまましばらく腕を振り回していたが、体をすっと後退させると恨みがましい目で祐一をじっと睨んだ。
「祐一、この子、誰?」
「知るか」
 小声のやりとり。
 少女はただ、あうーっ。そううなり声のようなものを漏らすだけだった。
「おい」
 祐一は仕方なく腰を落とし、少女の肩を捕まえると同じ目線で話しかけた。
「一体君はなんなんだ?」
 デニム地のジャケットを羽織った少女は、その青い目で祐一としばらく目線を戦わせていたが、突然両目からぼろぼろと涙をこぼしはじめた。
「祐一、女の子泣かした………」
 責めるように、名雪が呟いた。

 
 数分後、なんとか少女を泣きやませると、祐一と名雪はその少女を連れて中隊本部へと戻った。
 不思議そうな顔をした衛兵を笑ってごまかし、中に入る。
「大きなおでん種ですね」
「………秋子さん、それシャレになってません」
「そうだったかしら」
 僅かに小首を傾げる仕草をして、秋子は立ち上がった。そして祐一と名雪の間に立たされている少女と、しゃがむような形で向かい合う。
「あなた、名前はなんて言うのかしら?」
 秋子が問うと、少女はただ頭を横に振るだけだった。
「わからないの?」
 こくり。
「困ったわね……放り出すわけにもいかないし」
 秋子は瞼を閉じる。
「うちで預かるのはダメ?」
 大したことではないように、名雪が言った。祐一は呆れたような表情を浮かべて名雪を見た。
「了承」
「え?」
 祐一は、今度は、秋子の顔をまじまじと見つめる事になった。
「本気ですか?」
「佐佑理さんに話は通しておきますから。そちらで誰か担当を決めて、面倒を見させて下さいね」


「どうするんだよ」
 先程と同じ、小隊の宿営地への道。祐一は、左手に少女の手を引いた名雪を肘でこづいた。
「だって………」
「とりあえず名前を決めるか?勝手に。権兵衛とか」
「祐一…。この子、女の子だよ………」
「私、権兵衛じゃないもん」
「あ」
 名雪と祐一は同時に声を上げ、同時に少女を見つめた。
「日本語……」
 少女が発したのは日本語だった。ソヴィエト軍が迫りつつあるドイツの辺境。金髪碧眼の少女が、まさか日本語「しか」理解できないなどとは思えなかった。だから彼らは不安にさせないようにと思って、彼女にドイツ語で話しかけていたのだった。
「ね、キミ、名前は?」
 少女の前にしゃがみ込んだ名雪が、日本語で聞く。
「さわたり、まこと」
「まこと、ちゃん?」
 こくり。少女が頷いた。
 ふいに少女はしゃがみ込むと、指で雪面に文字を書き始めた。
 澤渡眞琴。
 それが少女の名前らしかった。







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