美汐の朝

C.F (c.f@ijk.com)


「ぴッ……ぴッ……ぴッ……ポーン……。おはようございます、6時のNHKニュースです。政府は……」

 少々古ぼけたラジオから流れ始めた硬質な声に、向かっていたパソコンのディスプレイから顔をあげて、天野美汐は2度ほど瞬きをした。
 気がつけば朝の6時。前日に図書館で調達してきた大量の資料を整理したり、その抜書きをパソコンに打ち込んでいたりするうちに何時の間にか夜が明けてしまったらしい。高校時代は自他ともに認める几帳面さを誇っていた美汐も、大学に進んで時間の縛りが緩くなってからは生活時間も身分相応のルーズなものとなっていた。もとより父親との二人暮しで----その父親も出張だか泊り込みだかで月の半分は家にいない----家族と生活時間を一致させる必要もなく、生活が堕落----高校までの彼女ならこう呼んだに違いない----していくのは早かった。
 パソコンが置かれたデスクから身を乗り出して、その向こうの窓にかかったカーテンを勢いをつけて引き開ける。
 朝日の強烈な光線が目にと言わず全身に飛び込んでくるような錯覚に、彼女は一瞬のけぞりそうになった。
「吸血鬼の気分でしょうか」
 そんな言葉が口をついて、そして、自らの呟きに苦笑する。4月の学期初め、午前の講義を避けた彼女の時間割を覗き込んで、親しい友人はこう言ったものだ。「まるで吸血鬼の時間割ですね」

 ともあれ、いかに実感とはかけ離れているとはいえ、朝なのだから、と思い直して、とりあえず目の前のパソコンを終了させた。それから、とっくに不要になっている部屋の電気を消しに歩きながら、今日一日の予定を考える。
 今日はゴミの日……風呂の洗剤がもう少しで切れそうだ……父親の部屋もそろそろ掃除をしないと……整理した資料に遺漏がないか先生に確認してもらって……ゼミの予習はまだ大丈夫……そういえばレポートが明後日までだから骨格を考えて……
 そんな事が頭を巡りながら、とりあえず着替えようと思ってベッドに腰をかける。昨日の日中に干してやった布団には、まだどこかに太陽の匂いが残っていた。
 「せっかく干したのに」そんなことを思いながらベッドに座り込んで、少し前かがみになったところで彼女の意識は途切れた。座って横に倒れた格好の彼女の上をラジオから流れるバロックが軽快に通過していった。




 ぶーん。ぶーん。
 何かが低く唸る音がするのに美汐が気づいてから、それがサイドボードの上におかれた携帯だと思いつくまで数秒かかった。ベッドから置き上がり携帯をつかむ。ディスプレイに表示された名前を確認して、緑色に光るボタンを押す。
「ふぁい……天野です」
 思いのほか情けない声を出したことに気づいて、ようやく頭がはっきりしてくる。
「わ。天野さん寝てました?」
 電話の向こうからは「朝から晩まで元気がとりえですっ」の親友の声が響いてきた。寝起きのあまりよろしくない美汐にとって、この親友自慢の「とりえ」は少々辛い。
「……すこし寝てしまったみたいです。今、何時ですか?」
「えっと、10時半です。ごめんなさい、もう起きてるかと思いましたので」
「大丈夫です。ちょっと遅かったものですから」
 遅かったと言うべきか早かったと言うべきか、などという問いが頭の片隅をよぎる。
「吸血鬼さんの時間割でしたね」
「……それで?」
 これでまた夜の住人とか呼ばれる機会が増えるかと思うと、多少言葉がきつくなってしまったかもしれない。事実とはいえ、最近では研究室の人々からもそんなあだ名で呼ばれるようになってしまっていた。美汐が属する研究室はフィールドワーク主体で、大学の中の組織では珍しく早寝早起きの集団だった。
「そうでした。ええとですね。昨日から祐一さんがこっちに来ているらしいんです。それで今日の3時に百花屋さんで皆さん呼んで、って事なんですけど。天野さん大丈夫ですか?」
「3時ですか……大丈夫です。ちょっと遅れるかもしれませんけど」
「わかりました。それでは、またあとで」
「はい」

 携帯を元の場所に戻してから、今までの会話を再確認する。
 3時に百花屋……今日は教授会の日だから、その前に先生を捕まえなければならない……すぐに出発しないと……。いつもの美汐ならば働かない頭を動かすのをあきらめて、昼過ぎまで寝ているところだが、今日はそんな余裕はない。日が変わるころに食べただけで激しく自己主張している食欲はまとめて生協で片付けるしかないだろう。せめてコーヒーでもと思ったが、カフェインの量だけは一流の生協食堂のコーヒーもどきのほうが良いかと考え直して、急いで身支度を始めた。




 30分ほどで支度を済ませ、美汐は玄関にいた。
 開かれたドアから夏間近の青空と大気が広がっていた。夜の住人になる前の昔話をするにはちょうど良い天気かもしれない。
 玄関の脇、靴箱の上に置かれた木彫りの狐----父親がアラスカかどこかの土産として買ってきた----の頭を軽く叩く。

「いってきます」







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