それだけのこと。
「相沢、お前は東京に戻って進学だったよな」
担任の城岡センセイが、俺の成績表を見ながら言う。進路指導室。ストーブに乗せられたやかんが、かたかたと鳴っていた。誰のものだろうか、ストーブを囲む金網に、手袋がかかっていた。
「一応は、そのつもりです。親も、戻ってくることですし」
「まー、それがいいだろぉなぁ」
右手に持ったノック式ボールペンで、城岡センセイが頭をかく。
そんな風景が、なぜだか思い出された。
午後からの講義にでるために乗った電車の中。車窓には延々と代わり映えのない街並み。そして、灰色の空。吊革につかまった俺の、目の前の席に座るサラリーマンが、バインダーに綴じられた書類の束に目を落としながら無意識に行っている動作と、いつもながら少しきつめの暖房が、どうでもいいことを思い出させたのかも知れない。
ふと、ジャケットの左の内ポケットに無造作に放り込んだ携帯を手に取る。メール作成画面まで、無意識のうちに操作して、電源ボタンを押す。リセット。小さな画面は時計に戻る。電話をするほど何か言いたいことがあるわけでもなく。何か聞きたいことがあるわけでもなく。ただ、メール作成画面を出しては、電源ボタンを押す。
そうして携帯を弄んでいる内に、電車がスピードを落とした。車掌のアナウンスが降りなければいけない駅の名前を告げる。吊革から手を離し、俺は少しだけドアの方へと動いた。軽いショック。電車が止まる。ドアの開く音がして、車内のそれとはまた異質の、ホームの雑音が耳に入る。
駅名と忘れ物のないように、という注意を告げる低い声のアナウンスに背中を押されるように、ゆっくりと階段を上る。改札を抜けると、あとはしばらくの歩き。大学の名前を冠しておきながら、どこが「前」なんだか。そう思うのももはや習慣の一部だった。
内ポケットから、短い違和感。
あわてて携帯を手に取ると、メールが入っていた。
ゆーいち、おはよー。 なゆき
ようやく起きたのか。声にはせずに呟きながら、俺は返事を打つ。
遅い。 祐一
それだけのこと。
それだけのことだ。
大学へ向かう歩調が、少しだけ早くなっていた。
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