彼女の海岸線
濃い緑とオレンジで塗り分けられた電車の中に、がたん、がたんという単調な音が響いている。少しだけ傾いた日が射し込む人気のない午後の車内は、その日差しと少し強すぎるようにも感じられる暖房のおかげで、眠るのには丁度良い環境だと思った。それを証明するかのように、左隣に座ったみさき先輩は、俺に寄り掛かった姿勢で静かな寝息を立てていた。
俺は、その静かな寝息と先輩の重さを感じながら、流れていく風景と先輩を、2対3ぐらいの割合で眺めていた。
ふと顔を上げて右を向くと、岸をコンクリートで固められた名前の分からない川の向こうに、SEIという水色の文字が壁に打ちつけられた、白く、平べったい建物が見えた。
「海に行きたい」
ほとんどの場合、先輩は唐突にそういうことを言い出す。
俺が、まだ3月だよ、と言うと、今がいいの、という返事が笑顔と一緒に返ってきた。
暖かい春の日差しが射し込むファーストフード店の2階席。時計を見ると、丁度短針が1を指そうとしていた。
「今から行くの?」
「行かないの?」
沈黙。
すぐ隣から俺を見上げる、先輩の視線が痛い。
こういう場所では出来る限り、先輩は俺のすぐ横に座ろうとする。この前、なんで?と理由を聞いたら、向かい合っても私には見えないから、すぐ隣で浩平君を感じてたいんだ、と何のてらいもなく答えられてしまい、逆に照れくさかった。
「行こうか」
あきらめてそう言うと、えらいえらい、と先輩が俺の頭を撫でてくれた。
ひとつため息を付くと、俺は先輩の手を取りゆっくりと席を立った。
「海って言っても岩場と砂浜があるけど、どっちがいい?」
「砂浜かな。やっぱり。転びたくないし」
駅への道すがら、俺達はどこに行くのかの相談をした。先輩にも、ただ海というビジョンがあっただけで、具体的にどこに行こうというのは無かったのだ。
「砂浜って言うと湘南とか、九十九里とか?」
「あ、江ノ島なんかいいなぁ」
湘南、という言葉から思いついたのか、先輩が言った。そういえば江ノ島って水族館もあったよね、と彼女はつけ加えた。
「じゃ、江ノ島?」
「うん」
駅の案内所で江ノ島への行き方を聞くと、制服の左ポケットに「春闘2000」というビニールのバッヂをつけた駅員さんは2つの行き方を教えてくれた。
乗り換えが多い方と少ない方どっちがいい?、と聞くと、先輩はいつもの通り、少ない方、と答えた。
こんな春先の海なんて、誰もいないものだと思っていたのは海と縁のないところ住んでいる人間の思いこみに過ぎなかったらしい。コンクリートの堤防越しに見える海ではウェットスーツを着た人がボディーボードやウィンドサーフィンなどに興じている姿が結構あった。
「ね、砂浜、降りてみようよ」
先輩にせかされるようにして俺は堤防の切れ目を探すと、ゆっくり、先輩の手を引きながら階段を下りた。少し灰色がかった砂浜に降りると、こころなしか潮の匂いが強まった気がした。右手に、江ノ島と思われる緑色の島と、そこまで繋がる長い橋が見えていた。
「海の匂い、すごいね」
「そうだね」
「ね、ちょっと手、離して」
ふいに先輩は俺の手を離す。
先輩?、と俺が不審の声を上げると、海に向かって歩いてみるの、という楽しげな返事が返ってきた。
「匂いと、波の音で?」
「それと風も、かな」
そして先輩は両手を広げバランスを取るような姿勢で、ゆっくりと歩き出した。一歩ずつ、足元の砂を踏みしめて、まっすぐに海へ。海から吹く風に舞う長い髪とスカートの裾が、西日の中で光を発しているようにも見えた。
俺はその後ろを、少しだけ間を開けて追った。
先輩の足あとを追って一歩、一歩。
気が付くともう、先輩は波打ち際についていた。それほど高くはない波が打ちつけられ、そこだけ砂浜はなめらかになっていた。
「先輩?」
俺はあわてて声をかける。
だが、先輩はそのまま真っすぐ、西日を反射してきらきらと光る海の中に向かって歩き続ける。足が水につかっても、気にするそぶりも見せないでまっすぐに。
その現実感の薄い光景に、昔、映画が何かで見た入水自殺がこんな感じだったかな、と思う。いや、そうじゃなくて。
「先輩!」
さっきよりは大きな声で、呼びかけながら、俺は走り出す。そんなに距離があるわけではない。あっと言う間に追いつくと、後ろから抱きしめるようにして先輩の歩みを止めた。
そのまま動かない二人の足を、波が洗っていく。
海の水は、思ったよりも暖かかった。
「よかった」
少しして先輩が呟いた。
「浩平君が、抱きとめてくれて」
「このまま、先輩がまっすぐ、どこかいっちゃうんじゃないかって」
「怖かった?」
「怖かった、んだと思う」
俺がそう答えると、先輩は小さく笑った。これでおあいこだよ、と。
その笑顔に、ああ、そうか。と納得する。
「悪いことしたと思ってる?」
「うん」
「ならね、私、行きたい場所があるんだけど」
先輩は都内にある高級レストランの名前を言った。
それを聞いて、一瞬俺が固まったに気が付いたのか、今度は先輩は吹き出すように笑った。
「そこの、ケーキバイキング」
「ケーキバイキング?そんなのでいいの?」
先輩はそれに、今日の所はね、と笑いながら返すと、俺の腕の中でこちらに向き返り、すっと背伸びをして一瞬だけ俺と唇を重ねた。
(了)
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