可哀想だね、この男の子は。
「狼が来たぞ」なんて言わずに
「誰かそばにいて」って言えば良かったのに。
ONEからさめない
#6 迷える羊飼い
「ねねっ、あの順位表の上の方に載ってる名前、詩子だよね」
予備校の廊下で、そう声をかけてきたのは留美だった。
いつも明るい照明のついている教室内とは違って、少し薄暗い感じのする廊下には、模造紙に書き起こされた先日の模擬試験の校内成績優秀者の得点と順位が貼ってあった。
「ん、そだよ」
「すっごいなぁ、詩子」
「でもねー」
私が不満げに言うと、留美が怪訝そうな顔をした。
「あいつに勝ってないからね」
「あいつ?」
「折原浩平、っていうんだけどね」
「おりはら、こうへい?」
「うん。すっごい数式の解き方するのがいるんだ」
「だって、いないじゃん。順位表に」
「受けてないんじゃない?模試。受けてたら絶対に載ってるもん」
どんなところにも「常連」というのがいて、ラジオ番組でも雑誌でもなんでも、なんとなくそういう人の名前は覚えてしまう。
「折原浩平」も、そんな常連の一人だ。
この一年というもの、悔しいことにそいつはいつも私の上にいて、さらに悔しいけど私には絶対出来ないような、芸術的な数式の解き方をしてみせるのだ。
そんなことを考えていたら顔が少し怒ってしまったらしい。
留美が、詩子でもそういうこと気にするんだ、と笑った。
「変?」
「ううん、かわいいなぁって」
いつもとは逆に、その言葉に私が返事を出来ないでいると、唐突に留美が言った。
「そだ、今日、詩子の家に行っていい?行ったことなかったし」
「なんで?」
「今日、クリスマスじゃない」
マンションの入り口で留美を待っていると、右手に紙袋を提げ、左手に金色の大きな犬をつれた留美がやってきた。
「ジョイ、連れて来ちゃったの?」
「だって行きたいっていうから」
留美の横で行儀よく「おすわり」をしている、ジョイという名前の大きなゴールデンレトリバーが白い息を吐きながら私を見上げていた。
お辞儀をするように前に屈み込んで、彼(一応オス、らしい)と視線の高さを合わせてその頭を撫でると、彼は元気よく尻尾を振ってくれた。
「ウチのマンションこういうのダメなんだけどなぁ、、」
「野良のが迷いこんだって言えばいいじゃない」
「ひっどーい」
留美のあまりの言いように、私は体をおるようにして笑った。
3分ぐらい笑って、いい加減笑い疲れてから、ようやく私は留美とジョイを3階にある私の部屋に招き入れた。
「おじゃましまーす」
玄関でとおそるおそる、といった感じで留美が言う。
「あ、誰もいないから気にしないでいいよ」
「共働き?」
私はその質問に答えないで短い廊下の先にあるリビングの扉を開けた。
「寒いから入っちゃって、今、暖房つけるから」
フローリングの床に、布団を敷いてこたつが置いてあるリビングに、私、ジョイ、最後に留美の順番で入る。
「さっきの質問ね」
そして、留美が部屋の中に入ってきたところで、私は暖房をつけるためにリモコンを操作しながら切り出した。
「共働き『だった』っていうのが正解かな。離婚しちゃったんだ。2年前に」
「え?」
「で、お父さんと二人暮らしのはずだったんだけどね。今、カタールだから」
留美は、どう対応していいのか分からないのか、困った顔をしていた。
その様子を、足元にお座りをしたジョイが、尻尾を振りながら見上げている。
留美は急にしゃがみ込むと、顔をうつむけてジョイの金色の背中を撫でた。二つにまとめた髪の毛の先と肩が、少しふるえていた。
「……ね、留美。そんな深刻なことじゃないし。笑ってよ」
返事はなかった。
「留美の、笑った顔が好きなんだ。私」
「………バカ」
顔を上げないまま、留美がやっと口を開いた。
「アンタそんなこと一度もっ」
「だって、聞かれなかったもん」
「ひとりでそういうの、ずるい……」
「なら、慰めるって言うのはどう?」
その言葉に反応してこちらを向いた留美の顔に、その唇に、私は自分の顔を近づけて、そして、二人の唇を重ねた。かちん、と歯と歯がぶつかった。
抵抗はなかった。少しして留美から、ゆっくりと唇を離し、彼女は行き場がなくて遊んでいた両手を私の背中に回した。
「寂しかったくせに、詩子の、バカ」
「………ごめん」
二人の横で放っておかれていたジョイが、小さく吠えた。
「夕ごはんにしよっか?」
とても近い距離で微笑みあってから、私たちはスーパーで買ったローストチキンをメインディッシュにした、ささやかなクリスマスのディナーを食べた。
残念ながらシャンパンとは行かなかったけれど、なぜか料理酒ではない日本酒が出てきたので、私たちはそれで乾杯をした。
そして、ケーキを食べて時計が11時を回った頃、留美は帰った。
別れ際にもう一度だけ、私たちは唇と唇を重ねるだけのキスをした。
つづく
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