徴が奇跡と間違えられる。


ONEからさめない


text by くわね(kuwane@fc4.so-net.ne.jp


#8 鐘が鳴る日

 ノートを図書館に置いてきたことに気がついたのは、昨日の予備校の講義の途中だった。ふと、気になってカバンの中をあさってみたが、そこにあの水色のノートはなかった。おそらくは図書館に置いてきたのだと思った。
 昨日が年内最後の開館日で、今日からは年末の休館にはいっているということは知っていたが、それでも、なんとなく足は図書館に向かっていた。
 バスを降り、雨の中を公園沿いの道を歩き、立派な門松を両脇に控えさせた自動扉のガラスの向こうに予想通りに「休館」と書かれた札を見つけ、僕はそのまましばらく立ち尽くしていた。
 そうして、手元から失われたノートのことと一緒に、僕は繭のことを考えていた。
 あの日。折原浩平の声の幻聴を聞いた日以来、僕は繭に会っていない。
 もうそろそろ2週間になるが、僕に水色のノートを残したまま、彼女はどこかへ行ってしまった。
 西岡さんには2回程会ったのだが、彼女も繭に会っていないと言っていた。
 彼女によれば家にも帰っていないということだった。
 一体、どこにいってしまったのか、想像もつかなかった。
 何も知らないんだな。僕は少し自嘲した。

 突然、声をかけられた。
「浩平、君?じゃ、ないよね」
 振り返ると、左手に水色の傘をさした女の子が立っていた。
 綺麗。そう言っていい女の子だった。頬が少しだけ紅潮していたが、対照的にその瞳は冷たく、全体的に冷めた印象だった。
 右手には白い杖があった。目が、不自由なのだろうか。
 その女の子の口からなぜ「浩平」の名前が出てきたのか、僕は一瞬戸惑った。
「別に、怪しいものじゃないよ」
 そう言うと女の子が「私は川名みさき」と名乗ったので、僕も「僕は氷上シュン」と名乗るついでに「君は、浩平の知り合い?」と聞いてみた。
 綺麗な顔を少し翳らせた女の子は、さびしそうに
「自称恋人。かな」
 と呟くように言った。
「恋人?」
 女の子の言葉を繰り返しながら、僕は少し考えた。
「屋上が好きで、目が見えなくて、よく食べる元気な女の子の話なら、聞いたことがあるんだけど」
「もしかしてそれ、私のこと言ってるの?」
 今度は、女の子が驚く番だった。
 そして僕たちは、図書館の軒の下に立ったまま僕と繭が初めてあったときのように互いの持っている折原浩平についての記憶を交換しあった。

「じゃあ」
「うん。ごめん。ノートは持ってきていないんだ」
 しばらくして、話がノートのことに及んだとき、みさき先輩はそう言った。
(僕が彼女のことをどう呼ぶか、あるいは僕はどう呼ばれるかということに関しては彼女と僕の間で少し話し合いがあり、その結果僕は彼女を「みさき先輩」と呼ぶことになった。みさき先輩は、同じような会話を浩平との間でしたことがある、と懐かしそうだった。)
「だけど」
 先輩は続けた。
「今日の夜。除夜の鐘が鳴る頃にまたここで会えないかな?」
「日付が変わる頃に、ここで?」
「そう。ここで」
 断る理由は、なかった。家を抜け出るぐらいどうってことはなかったし、僕と彼女は年が変わるころ、再び図書館の前で会うことになった。
 関東地方では平野部でも夜半から雨が雪に変わる可能性もある、という朝の天気予報があたらなければいいんだけど。師走の町に雨を降らせている重い色をした冬の雲を見上げながら、思った。




        つづく







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