やがてすべてが忘れられて
森の最後のお祭りの日


ONEからさめない


text by くわね(kuwane@fc4.so-net.ne.jp

#19 シグナル

 私は詩子と名乗る女の子に肘を借りて動物園の中を少し走った。
 息をするのを押さえていたので、もういいよ、と彼女が言ったとき、ほんの少し走っただけなのに私はすっかり息を切らせていた。
「ねぇ、目が見えないって、冗談でしょ?」
 二人で植え込みの中に腰を下ろしたとき、やはり息を切らした彼女が最初に言ったのはそれだった。
 私はゆっくりと、首を左右に振る。
 それを見た彼女が、大きくため息をついたのが分かった。
「……すごいバカね。言っちゃ悪いけど」
「よく、そう言われるよ」
 私には自分が頭がいいとは思えない。絶対、その逆。頭が悪いとしか思えない。もし頭がよかったなら、きっと視力を失うようなまねはしなかったんじゃないか、そう思う。
「で、あなたは何をしにここに来たの?」
「浩平君のノートに書いてあったこと、で分かるよね」
「分かるけどね」
 彼女はまた、ため息。
「今日はそういう理由でここに来たバカがたくさんいるみたいだし」
「詩子ちゃんも含めて、ね」
 彼女は、そんなこと分かってるわよ、と小さく呟く。
 私はそれを聞きながら思ったことを口に出す。
「ねぇ、今、たくさんって言ったよね」
「言ったよ。私の知っている限りで私とあなたを含めて少なくとも4人はここにいると思う。あなたがさっき言った「氷上シュン」をカウントすれば5人。これ以上はさすがにいないと思うけどね」
「その中に、小さい女の子、いなかった?」
 彼女が驚いたのが分かった。いた、という短い返事は、微かにこわばっていた。
「その子、浩平君を覚えてる子でしょ」
 今度は、おそらくは黙ってうなずいたのであろう沈黙。私はそのまま言葉を続ける。
「その子のね、声が聞こえたんだ」


 最初に声を聞いたのは、カレンダーの上では、まだ3週間も経っていないけれど、もう大分前のことに思える。
 あの雪の日。彼女が、時間を潰すために喫茶店にいた私を見つけた。
 ノートについて、短いやりとりをかわした。
 自分の何かを守るために彼女が発する(少なくとも、私にはそう思えた)、みゅー、という言葉が、強く印象に残った。
 その時と同じ声が聞こえた。
 可能世界と可能世界の間で道を失ってしまって、泣いている声だった。

<<わたしはここだよ>>

 そう、言っていた。
 誰に向けてなのかは、分からなかったけど。
 浩平君にだろうか?それとも不特定多数に向けて?あるいは別に誰かいるのかもしれない。
 少なくとも、それは私にではないと思えた。
 だったら、きっと。


「声、ね」
 何かを含んだような、突き放した調子で詩子ちゃんが言う。
「でも、そろそろ潮時」
 彼女の言いたいことはよく分かる。分かったから、少しだけ唇を噛む。
 いくらなんでももう、お祭りはおしまいだ。
 祭の夜は続かない。
 だけれども、お祭りが何のためのお祭りだったのか。
 私たちはそれにまだ、出会っていない。
 突然、小さな音が聞こえた。ぶー、と何かが震えるような、どうしてそれが聞こえたのかも分からないくらいの、小さな、小さな音。
 それに続いて詩子ちゃんの方から衣擦れの音と、電子音。
 彼女の携帯電話が鳴ったのだった。
「うん、で。今どこ?うん……うん」
 夜の空気に向かって話すように、どこかここではない場所にいる相手と彼女は会話をする。
 なぜだかとても、切羽詰まった様子だった。
 時間にすればわずか数十秒だろう。再び、今度は回線を閉じるための電子音をさせると、彼女はすっと立ち上がった。
「もう一度一緒に走る気、ある?」



        つづく







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