どこにも戻らない
ただ前を見たい 歩きたい
ONEからさめない
#25 名前を呼んで
桜には少しだけ早い、3月の中頃。
卒業式に出るために、少し頑張った格好をして、私は久しぶりに高校の門をくぐった。
高校には、卒業生の父母が香水と、防虫剤の匂いを連れてきていた。
体育館の入り口に設けられた受付で、顔見知りの先生に声をかけられ、少しだけ話す。その先生に案内して貰って、私は来客席のパイプ椅子に腰を下ろした。
しばらくすると、生徒指導の先生の声がして、ざわついていた館内が静かになっていった。
静かになったところで、起立。礼。着席。衣擦れの音、椅子と床とがぶつかる音、短いざわめき。そして、静粛。
開会を告げる言葉に続いて、卒業生全員の名前が3年の担任の先生によってクラス毎に読み上げられていく。
誰か女の子が、すすり泣きを始めた。
すぐさまそれが、生徒の間に伝染していく。
その間も、努めて淡々と、先生が名前を読み上げていく。
はらだかつみ、ひかみしゅん、ふじたともひろ………
浩平君の名前は予想通り、最後まで呼ばれなかった。少し寂しかったけれど、でも、不思議な安心感が生まれていた。
なぜだかは分からない。
でも、きっと会える。そんな根拠のない確信があった。
その確信を胸に、私は屋上への鉄の扉を開けた。
久々の屋上には記憶より少し強い風が吹いていた。
私はフェンスの手前に設けられた手すりに触れ、ペンキのざらざらとした手触りを確かめる。
ふと、背中に気配を感じた。
それが誰かなんて、本当は聞かなくても分かっていた。
でも、なにより声を聞きたかったから、私は「誰?」と疑問形ではじめた。
「あやしいものじゃないよ」
私のまねをした、懐かしい声。
2回目に会った時の、夕焼けの屋上で交わされた言葉が繰り返される。
彼に背中を向けたまま、私は口を開いた。
「浩平君、アイス、溶けちゃったよ」
「…ゴメン」
「ずっと、待ってたんだよ」
「うん」
「すごく、寂しかったんだよ」
「うん」
「…ずっと、ずっと」
そこまで言ったとき、ぐるっと体が回されて、抱きしめられて、私の頭の中はまっ白になってしまった。
下の方から聞こえていたざわめきが、遠くから聞こえていた車の音が、風の音が、世界からすべての音が、消えていった。
「浩平、くん?」
「みさき先輩、俺、帰ってきたから」
「…うん」
あの日と同じ、すこしちくちくする肌触りを頬に感じた。
「もう、勝手にどこかに行かないから」
「……うん」
あの日と同じ空の音が、静かに、だけどしっかりと、私の鼓膜を打っていた。
「………おかえりなさい」
「ただいま」
そして私達は、唇を重ねた。
ほんの少しだけ。わずかにふれあう程度に。
でもそれで十分だった。
涙が溢れて止まらなかった。
「ねぇ、浩平君」
「うん?」
私達はしばらくのあいだ、屋上に、一つだけおかれたベンチの上で互いに寄り添って、なにをするでもなく時間を過ごしていた。ゆっくりとながれる風が心地よかった。
「浩平君のいない間にね、やりたいことが出来たんだ」
「先輩に?」
「うん。言葉を紡いで、伝えたいって思ったんだ。瞬間をつないで、未来にのこしたいって」
へぇ、と感心したような声が聞こえた。すごいじゃん、それ。
「浩平君のおかげだよ」
「俺の?なんで?」
私はそれに、ひみつだよ、とだけ答えて、まだ何か言いたそうだった浩平君の唇を、その日2度目のキスでふさいだ。
了
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