大森荘蔵「他我問題に訣別」について
大森のこの論文について、他我問題が一般のありふれたやり取りの中では決して問題にはなり得ないような「哲学的問題」であるという見地には私も同意する。だが、大森自身近いと言いながらも(7節)、心理主義の誤謬に陥ったと断じているウィトゲンシュタインに対する評価に関しては疑問を感じる。このレポートではウィトゲンシュタインを念頭において、大森論文での中心問題と思われる「知覚的意味」と「思考的意味」の差異について再検討する。
まず第一に大森の主張する「知覚的意味」と「思考的意味」について概観する。
大森はこの2つの異なる意味の様式に関してフッサールの用語を準用して『「我が腹痛」の意味が熟知の痛さで知覚的充実(Erfullung)をもつのに「彼の腹痛」は我が腹痛をモデルにしてイラストされるにもかかわらずその意味は思考的にのみ了解できるのである』(6節)と述べている。そして、その後段では「思考的」に関する例として、1ミクロンや腕時計の短針の速度、自然数やユークリッド直線などの意味は思考的である、としている。
そして、思考的意味は意味公理系によって定められると言う。
意味公理系とは、内心に関する経験命題とそれに随伴する行動命題との内含関係の集合である。自己の内心に関する経験命題は知覚的意味を持っており、また意味公理系に反映されるような行動命題を随伴する。同様に、他者の内心に関する経験命題は、やはり行動命題を随伴し、それを手がかりに意味公理系によって検証され、思考的意味を獲得すると、大森は主張する。
これは、大森自身が認めているように、他我問題における2つの伝統的な考えである類推説と行動主義の折衷案である。この両者の考えを、大森は以下のように示している。
『(A)他者経験は私自身の対応する経験に極めて類似するものとしている。(B)その命題を使用して発言したときの真偽判定は主としてその他者の言語的応答を含めての行動によってしている。』(5節)
ここで(A)が類推説に(B)が行動主義に対応する。これら両者は大森の論に導入され、(A)は自己の内心に関する命題を他者の内心に関する命題へと変換する際に、主語を一人称から他人称に変更する事に現れており、また(B)は前述した意味公理系による検証作業に現れている。
ただし、この大森の論中では単に以前からの折衷に止まらない部分が含まれている。それが、知覚的意味と思考的意味の差異の指摘である。自己経験を述べる命題は知覚的意味を持つが、他者経験に関する命題は意味公理系に基づく思考的意味を持つ。だが、この差異の指摘はこのように明確な二分法を取ることが出来るのか。以下その事について指摘していきたい。
まず第一に生じてくる疑問は「思考的」と「知覚的」の境界線は曖昧なのではないかという、この種の定義には付き物の疑問である。
1ミリの意味は知覚的に了解されるだろう。そして、1ミクロンの意味は確かに意味公理系に基づいて思考的に了解される。では、どこまで小さい単位になれば知覚的には了解不可能で、思考的に了解される意味を持つのか。あるいは、6500ミリという長さを考えるとき、多くの人々はそれを思考的にしか理解できないだろう。だが、例えば土木工学分野の人々は6500ミリは6メートル50センチよりも知覚的であると主張するかもしれない。
大森が「公理系による思考的意味は珍しいものではなくユークリッド公理系を皮切りに数学では無数の公理系によって日常的な思考作業になっている」と述べている数学についても同様である。自然数やユークリッド直線は数学における公理を念頭におけば、確かにそれは思考的な意味しか持たない。では、単なる数や直線の意味とは思考的であるのか。数学者でない一般の人々が算数や幾何の問題を解く時には数や直線を使うだろう。では、そのような時の数や直線も同様に単に思考的な意味しか持たないと言い得るだろうか。
これらと同様の疑問がここで問題となっている内心に関する意味についても言い得るだろう。この私の痛みは確かに知覚的であり、「私は腹が痛い」の意味は知覚的意味である。では、大森が主張するように「彼は腹が痛い」の意味は思考的であるだろうか。必ずしもそうではない。「私は腹が痛い」の意味が知覚的であるのと同様に、「彼は腹が痛い」もまた知覚的でしかありえないような状況は存在する。
例として「誰かにどこからかボールが飛んで来る」という状況を考えてみよう。そして、この後、私に飛んで来る/他人に飛んで来る、及び、ボールが当たる/ボールが当たらない、の組み合わせで4つの帰結が現れるとしよう。
この時、当たる当たらないに関わらず、私が「私は(彼は)体が痛い」を含意するような言明(「痛い!」など)をする事は容易に想像できる。では、これら4つの言明の意味の内で、どれが知覚的でどれが思考的であろうか。
大森の論を単純に解するのであれば、一人称命題の2つが知覚的であり、残りの他人称命題が思考的である、と言えよう。だが、ボールが命中していないのであれば生理学的に言えば痛みの知覚は存在しないのであるから、「私に飛んで来て、当たらない」の場合に知覚的意味であると主張する事は奇妙である。ここで大森が知覚的意味について、単なる人称の問題と捉えているのか、それとも生理的/心理的な知覚と何らかの関係があると考えているのかは、この論文中では明らかではない。それゆえ、これ以上の論議を進める事は出来ないが、少なくとも単なる人称の問題と捉えれば前述したような奇妙さが生じるし、生理的/心理的な問題との関わりを見るのであれば今度は心脳問題という新たな難問に取り組むことになるだろう。
一方で意味公理系による思考的意味を持つ他人称命題においても問題が提起できる。それは、一部の他人称命題は思考的な意味ではなく、知覚的意味を持つのではないかという疑問である。一部の他人称命題は、前段で述べた「私に飛んで来て、当たらない」の場合の一人称命題が知覚的意味を持つと主張するならば、これと同様に意味公理系を参照するなどといった操作なしに知覚的意味が知られないだろうか。一部の他人称命題は思考的にではなく意味が知られる、というこの主張はフッサール以後の現象学者に見られるし、ウィトゲンシュタインの「確実性について」の中で展開される議論もまたこれに関係しているという事ができるだろう。
このように、知覚的意味と思考的意味を大森の論に基づいて分類するとき多くの問題が現れるのだが、これは類推説と行動主義を、ひいてはフッサールの論とウィトゲンシュタインの論を、無理に接木しようとした事から生じたのではないか。
例えば、前述した「Xは体が痛い」の4種の命題についても、フッサール「的」な現象学者であれば4つとも知覚的であると主張するだろうし、ウィトゲンシュタイン「的」な行動主義者は全てを思考的と分類するだろう。だが大森の論に従えば、「私に飛んで来て当たる」場合は少なくとも知覚的であり、他人称命題の2つは思考的、となる。
この問題を生ずることになったのは、大森自身の独我論的立場にあるのだろう。論文中には明確に現れていないが、そもそも知覚的意味について殆ど何も述べていないことがその根拠となる。フッサールが「ヒマラヤ越えにふさわしい物々しさで哲学的繁文縟礼」(4節)の言語的武装を行ったのは、まずもって自我の固有領域を明らかにするためであって、他我の構成という目標を脇に置くとしても必要なものであった。
私が見るところ、大森の他我問題のこの解決法は一般の人々のやり方を参考にしようと掲げているにも関わらず、結局の所「哲学的不自然さの伝統」から解放されていない。自他のアプリオリな分節という出発点にし、柄谷行人による独我論の定義「独我論とは自分に妥当することが他者にも妥当するとする考えである」を方向付けとして採用したのが、大森がこの論中で立脚点であると言えるだろう。
大森がウィトゲンシュタインを行動主義者として批判する時、独我論からの行動主義のみを見ている事は、その典型的な証左である。ウィトゲンシュタインは言語ゲーム論を展開するにおいて、自と他の決定的な差異などはそもそも問題としていない。言語ゲーム論において何よりも先行するのは言語ゲームそのものなのである。自と他の分節は言語ゲームの中での1つの実践例でしかない。
大森のこの論は他我問題を「解決」はするだろう。だが、その解決策は進んで独我論の牢獄に繋がれるということであり、「訣別」とは言い得ない。
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