医療に関わる哲学、に関する考察

C.F (c.f@ijk.com)


 他者やコミュニケーションの問題に関して私は興味を持って哲学を学んできた。だが、生命に対してであればともかく、医療の場面に哲学的な方向付けで関わろうとするとき、私はいつも強い困惑を覚える。おそらくそれは医療という場面の極めて実践的な(殆ど実戦的と言っても良いくらいの)側面によるのであろう。極めてクリティカルな状況に置かれているという意味で患者はどこか人間一般とは隔離した主体であるし、患者と治療者という関係も対等な関係であるとは言い難い側面がある。このような側面が、少なくとも現在の医療に関わる哲学には、あるように思える。
 だが、医療に関わる哲学のそのような側面は付加的なものであって、基本的条件は医療以外の場面のものと同様のものがあると思われるので、そうした面はとりあえず脇に置く事にして、論を進めたい。そして、医療に哲学が関わる際には色々な局面があるであろうが、ここでは自己決定という局面に絞って考察する。

 さて、自己決定に関して可能な限り患者の意思を優先させようとする場合、「In The Face Of Suffering」のP.64にあるような意思決定の樹形図が一般に想定されていると言えよう。この樹形図は、この論文の筆者(Jos V.M. Welie)が指摘しているように、患者の善に関して最も知り得るのは患者本人である事と患者の内心に関しては基本的にブラックボックスである事の2つを前提としている。このような主張に対して筆者はその双方に対して懐疑的意見を提出するのであるが、その際に前者に対しては主に理論的な不備から疑念を提出しているが、後者に対してはブラックボックス仮設そのものへの疑念を提出している。
 私も筆者同様にブラックボックス仮説には懐疑的である。だがそれは、筆者が言うように医療や介護の提供者(Care Providers)が患者の内心を洞察できるという局面に対してではない。むしろ、私が問題にしたいのは、患者の家族や友人にとってもブラックボックス仮説は妥当するかという問題である。Care Providersが患者の内心を洞察できるか、という問題には私もブラックボックス仮説が妥当するものとして良いと考える。彼らはまず第一に治療者であり介護者である以上、患者の苦しみを共有したり洞察する以前に苦しみに対処し取り除くことが求められているからである。もし、彼らもまた患者の内心を洞察する事ができるのであるとすれば(このようになる事を私はもちろん望むのであるが)、それは患者の家族や友人が洞察するのと同じ方法によることになるであろう。そうであるから、まず第一に論じなければならないのは身近な家族や友人が、クリティカルな状況に陥った時にその人の内心を洞察しうるか、という問題である。
 このような洞察がなぜ必要なのか。そのような疑念が個人主義の立場から発せられるだろう。だがそれは他者と全く無関係に生活が成立するような状況でもない限り、無意味な疑念である。我々は多様な行動を通して直接/間接に他者と関係している。私が考えるところ、この関係性は個人主義的立場で考えられている以上に重要である。すなわち、このような関係性の中で個人のアイデンティティが形成されると考えるからである。他者が洞察されえない理由から納得のいかない選択を提示する事は関係性に打撃を与え、自己の確からしさを揺さぶることになるであろう。無論これは選択をする側にも言える事で、他者によって納得されない選択は自己の確からしさを失うことになる。
 これは社会的体面とか、そのような問題ではない。私が主張したいのは、医療における選択、例えば延命的な治療ではなくて痛みを緩和したり短い期間であっても積極的に活動できるようにしたりする治療を選択するなど、は患者が他者と積み重ねてきた関係性の帰結として妥当するようなものであるべきだ、という事である。より正確に言えば、少なくとも妥当しない場合にはそれを詳しく再検討する必要がある。他者との関係性は個人主義者にとっては制約であるかもしれないが、私の考えでは積極的な意味での制約、つまり私を構成するようなもの、とまで言えるものである。無論これは医療における選択に限られるものではない、人が何か行為する際全般に言えることである。







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