主体性について
近代においてギリシア以来の伝統を継ぐ哲学は自由や主体性という問題を主要な課題としていた。これは近代における政治、経済、宗教、科学などでの変化によって要請されたものであると言える。
世俗権力による国民国家、資本主義体制、プロテスタントの成立、近代科学の発展。このような近代になって現れた新たな社会体制は、人間個人が体制の主体となるようなものであった。それ以前の体制、すなわち宗教権力、封建体制、ローマカトリック、神話的自然観では、それら体制の主体は人間を超越した超越者であった。そのような超越者ではなく、あくまでも人間の、それも個人を主体に据えることを近代の諸体制は要求したのである。
このような要求の中で哲学はどのようにして主体性や自由を人間個人に確保したのか。
その際に方向性を与えたのは、哲学の一分野という身分から少しずつ離れながら体系化していた近代自然科学である。古代以来のユークリッド幾何学から始まる自然現象の抽象化を完成したニュートン力学は人間の自然理解を端的に象徴し、それまで4元素からなる地上と第5元素(エーテル)からなる天上というように隔絶して考えられてきた地上と天上の原理を1つに統一した。
このような近代自然科学の発展と前後しながら、近代思想もまたそのような方向性で展開された。
例えば、フィヒテは"Uber den Begriff der Wissenschaftlehre"の第1章第1節の冒頭で「あらゆる規則正しい形式を持っていながら人間の知り得る物を含んでいない」博物学を学問として認めず排除すると述べ、その際に"atheisch"(エーテル的)という形容詞を使用している。
この事が、前述したような自然科学的な世界理解を少なからず背景にしていることは、やはりフィヒテの「知識学」という構想にも現れている。諸学における原則を基礎付ける学であるところの知識学における原則、すなわち哲学における原則、これがフィヒテの構想における根本的な主体性である。
このような主体性が確保されさえすれば、世界の全てがそこから始まることができる。ネオプラトニズム思想における一者のように、何らかの形で確保された主体性(自己原因性)は、そこから全てが導出され、また全てが還元していく先となる。そして、ネオプラトニズム思想で自己原因性が与えられたのは一者という超越者であったのに対して、近代思想の中では人間個人に主体性が与えられたのである。
このような背景の元でデカルトは「思惟する限りでの自己」(Cogito)の確実性を見出したのである。この確実性はまた同時に思惟することの主体性をも含んでいる。ここで、自己の確実性と思惟の主体性は単純な因果関係にないことを注意すべきだろう。自己が確実でなければ思惟という行為は成立し得ないし、一方で思惟が主体的でなければ思惟する限りでの確実性などありえない。
この問題は、両者が時間性を背景にした因果性という関係性ではなく、共に現在性の中で成立しているということから、解決可能ではある。だが、何らかの主体性から世界を導く際には自然科学的な因果性を根拠にするのに対して、主体性の成立そのものにおいては因果性を採用しないということは首尾一貫しないという批判の余地を残してしまう。
思想や体制などのシステムを支える何らかの原則や仮定はそのシステムの中では必ずしも確証されないということに、これは関係している。近代思想や体制が人間集団や自然を人間個人を主体として支えようとするとき、人間個人それ自体は因果性によっては確証されないのである。
だが、近代思想は失敗に終わり、近代の諸体制は根拠を失ったわけではない。
近代において、思想や体制は人間個人をそれらの主体に据えようとした。それと同時に、システムの外部性であるところの超越者、すなわち神はそれ以前と同様に確保し続けていた。近代において現れたのは、神と人間個人という対構造であり、神の抹消や消滅ではない。
このことは、近代の諸体制にも見ることができる。例えば資本主義の発展の原動力の1つとしてウェーバーが指摘したような現世的でない目的への資本蓄積が存在した。また、近代自然科学は決して神や宗教を否定すべくなされた運動ではなく、むしろそれらをより強く確証するための運動であり、「神の書かれたもう一つの書物」(=世界)の解読という目的の元でなされたのであった。
ここで、近代体制の1つであるプロテスタント(運動)が参照できよう。知られているように、プロテスタントは神と人間個人の間にカトリックでの教会のような媒介者を置かず、人間個人と神が直接対峙するという考えを取る。また、聖書を各国語に翻訳し、聖書を信者一人一人が読む事を重視した。この事は、「神の書かれたもう1つの書物」の解読という近代自然科学の理念と対置して考えることができるであろう。信者一人一人が聖書を読み自ら神に対峙して信仰を選択するということと、理性によって自然を探求し世界を解読していく事は、その動機や目的において同じくするところがあると言えよう。
この神と人間との対峙関係が前記のシステム内部での矛盾を解消する。システムの内部にある人間個人の主体性は、システムの外部にある神によって確保される。カントが「実践理性批判」で神・魂の不死・自由を3つの理念として掲げているように、システムの外部にある神はシステムがどのようなものであるかに全く干渉を受けず、内部にある人間個人の行動や存在の可能性を動機付ける。
このとき、神と対置されたのが人間集団ではなくて人間個人である事は極めて重要である。宗教的側面で言えば、神はモーゼという人間の代表者に十戒を「与える」のではなくて、人間個人と「対峙する」ようになったのである。
また、近代的な個人主義もまた、この神と人間個人の対峙から生じるものである。神と人間個人が対峙する事は、人間個人同士は神との対峙という点で等しい事を示している。そして、神と人間個人がシステムの内と外で向き合うのであるから、人間個人同士も又それぞれのシステムの内なる私と外なる他者として向き合うことになる。このような個人主義が成立するとき、利己主義的な個人主義は成立し得ない。神と人間個人が対峙するようになったのは、人間個人が先行したのではなく、超越者として既にあった神に対してシステムの内部から人間個人が主体性を獲得したのであった。同様に人間個人同士が対峙するような個人主義においても、外なる他者が先行し、そうした他者に対峙し得るよう内なる私が主体性を獲得するのである。
主体性や個人主義といった近代での理念や主義は19世紀末期から現在に至る現代思想の展開の中で、放棄されたとは言えないだろう。それらが前時代的でもはや意味をなさないとは決して言い得ない。急激な科学の発展と細分化によって自然を超越的なものと見るような考えは失われてしまっており、本来の意味を全く忘れ去った個人主義という名の利己主義がまかり通っている現状において、それらへの批判者としてエコロジーや他者共同の考えが現れている。このような新たな思考を展開する時、近代における主体性や個人主義を無視することなく検討する事が必要であろう。そうしなければ、近代思想という遺産を全く活用することなく埋もれさせてしまうことになるのに加えて、近代思想が導いてしまった現状の錯誤を再び繰り返すことにもなりかねない。
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