その人らしい生、その人らしい死

C.F (c.f@ijk.com)


 終末期医療の現場について聞く際、時折疑問を感じるものがある。それは、「その人らしい死」という問題である。一体、「その人らしい死」とはいかなるものであろうか。この事について、簡単ではあるが、論じてみたい。

 例えば、人生の大半を頑固に弱音を吐かずに生きてきた人に対して、短い事がわかった残りの人生を家族と一緒に安らかに過ごしてください。もう、肩肘張って生きる事はありません。と、提案する事が良いとされる。これが、終末期医療の一つのあり方である事は確かで、それはもちろん私は認める。従来の医療は、目前の死を回避する事が非常に困難だとしても、医療である以上回避するための最大限の努力を払う事を基本として来た。だが、既に精神的な意味でも肉体的な意味でも弱っている人に対して、更に苦痛を伴う治療を強いる事はできない。また、終末期という語が示しているように、どちらにせよ目前に迫った死は回避できないという事もある。
 だが、決して唯一のあり方ではないだろう。前出の例で言えば、頑固に強く最後まで病魔と戦うというのも一つのあり方ではないかと、私は考える。なぜならば、その人の今までの人生の帰結として十分にありえるものだからである。当人は今までの人生を自身にとって価値あるものにしようと生きてきたはずである。そうだとすれば、今までの人生の帰結として「苦しいが病魔と戦う」という選択をなすのであれば、それは当人の価値の現われとして十分に納得できる。

 QoL(Quality of Life:生命の質・価値ある生)といわれる。だが、ある人にとって、何を満たせば質的に充実するのか、価値ある生なのか。これを知るのは、他者である家族や医療者はもちろんの事、当人にとっても非常に困難な事である。
 「痛みや苦しみのない生」というのは確かに相当に一般性を持つ価値である。そして、死が目前に迫ったとき、その様な価値に気付き、生き方を改めるという事もありえるだろう。だが、ある価値を持たずに生きてきた人に対して、新たに価値を受け入れろと強いるのは本末転倒である。それは、不本意にも延命されてしまうという問題と同様の問題である。年をとったのだから、死が迫っているのだからという理由で患者当人の価値実現が阻害されてはならない。老人介護施設などで、利用者が「子供扱いされている」と感じてしまうような処遇が行なわれているのと、この問題は同根の問題である。

 さて、ここで家族や医療者といった周辺の人々の問題が出てくるだろう。彼ら患者の周辺をなす人々と患者との、生に対する価値が異なって来る場合である。極端な例でいえば、患者が自身の価値を貫く為に、安楽死など社会的に容認されていない事を周辺に要求してくるかもしれない。又、そこまでではないにせよ、輸血拒否などの治療に対する要求なども現に存在している。当然ながら、患者の要求があり、又患者の価値にかなう処置であったとしても、社会的に容認されていない処置を行なう事はできないであろう。だが、そこまで深刻な問題ではないのであれば、当人の要求する処置を行なうべきであろう。輸血拒否などの問題はこの範囲内に含まれると思われる。
 ただし、単に処置を拒否したり、許容の範囲内であるとして処置を行なうだけであってはならないだろう。当人の価値と周辺人物の当人に対する価値が、一定の社会的容認の範囲内で一致する事が理想的モデルだからである。患者である当人は確かに主役であり、当人の価値の実現が最大限尊重されねばならない。一方で、周辺をなす人々も同時に自身の生を生きているのであり、彼らの価値実現にも配慮が払われるべきであろう。無論、実際には「家族に迷惑をかけるから」といった理由から当人の価値実現が疎外されている面があるので、現実には患者である当人についての価値実現を重視せねばならない。

 QoLの基準として私が考えているのはこのように「その人が自身の生を貫くような、一つの流れを持つ事ができるか」である。自身のおかれた状況や周辺からの働きかけによって価値意識が変化するとしても、そこに当人と周辺の人々にとって納得できる一連の流れを持てるかどうか、これがQoLの基準であり、ひいては「その人らしい生」や「その人らしい死」に繋がると考えられる。
 極論を語るならば、その様な流れを持つ事ができるれば、例え予期せざる死を迎えるとしても良いと考える。死はただ単に生の終わりなのであって、まず第一に追求されるべきなのは生の充実である。QoLとはLifeという語が示しているように生の問題である。だが、多くの言説はQuality of Deathになってはいないだろうか。終末期の医療や倫理という問題も、あくまでもそれは終末期という生の一部についての問題である。(目前に迫った)死は、追求される目標ではなく、考慮に入れねばならない要素の一つなのである。
 「その人らしい死」は「その人らしい生」によって初めて現れるといえよう。







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