理性・意識・他者
フッサールの現象学的還元もラッセルの言語の明確化も、共に自分に関する記述を明確にすることのみが達成されている。無論、彼らがその点に関してきわめて深い考察を加えたことの意義は大きい。理解ということに関して、理解を行う主体や理解の方法の詳細な記述は彼らによってなされた。しかし、彼らが目指した理性の危機や独我論のアポリアと言った諸問題の解決は達成できず、却ってそれらの問題を深めることとなった。
フッサールは現象学運動で学問の究極的な基礎付けを目指した。ここでの学問(Wissenschaft)は単に自然科学に留まるものではないが、その克服すべき問題点は自然科学に端的に現れていた。非ユークリッド幾何学の可能性や集合論の矛盾、相対論と量子論と言った問題が近代自然科学に突き付けられた。一方で、ニーチェの「神の死」は近代理性が克服しようとしつつも依存してきたキリスト教的神の死を宣告し、理性はその後ろ盾を失った。こうして、後ろ盾を失い、その成果を疑われるようになった理性は今世紀の初め「理性の危機」と呼ばれる状況に追い込まれたのである。
フッサールは危機に陥った理性を主観性の見地から再構築しようとする。前述したように、神と外部世界と言う2つに依存していた旧来の理性は、その2つが自己とは無関係に外部に存在するものである為に一見明確なものであるように見えたが、一度それらが疑われてしまうと一気に崩れ去ってしまった。そこでフッサールは主観性から理性を構築しようとする。デカルトの用いた方法的懐疑をさらに深化させ、意識の純化を図ろうとする。
しかし、現象学はその当初の目的においては失敗したと言わざるをえない。現象学は主観性から出発して、現象そのものにたどりつこうとする。その過程に立ちふさがる多くの壁を何とか乗り越えた現象学も、他者の問題だけは乗り越えられなかった。他者に対して自我と同様の根源的明証を与えること、この点にフッサールは十分答えることが出来なかった。
論理哲学論考に収束する言語学的転回の試みも、やはり他者問題に直面する。ウィトゲンシュタインが論理哲学論考の最後に述べた『語り得ないものに関しては沈黙しなくてはならない』と言う言葉は、その『語り得ないもの』がともかくもあるということを認める言葉でもある。『語り得ないもの』とは『理解できないもの』である。他者に関して明確な言明は出来ない。それは『私』の理解における他者であり、それは自己を他者に投影しているだけだからである。
こうして、『私』の理性に関しては意識の内側を分析すること(現象学)や理性の語り方を分析すること(言語論的転回)も可能ではあるのだが、他者に関してそれをなそうとしても、他者を『私』と同一視しているに過ぎないと言う結果を生む。
ところで、理性的な言明とは『私』の言明であるのだが、これを『我々』の言明であるとみなしたのが、近代理性であると言える。そして、それに異議を唱える存在は『狂人』『未開人』として扱われたのである。しかし、この『我々』は近代と同時に消え去った。例えば、人類学において文化相対主義は『未開人』と『私』を相対化して捉えようとする。また、精神病理学は『私』もまた『狂人』になりうる可能性を語っている。
ハイデガーが指摘するように、『私』はIn-Der-Welt-Seinとしてある。『我々』はありえず、ただ『私』と他者があるのみである。『私』が世界を構成すると同時に他者も世界を構成する。この構成された世界はそれぞれ異なるものである。フッサールは身体の類似性と心身の対応関係から、他我が構成する世界と自我が構成する世界との関連を述べる。しかし、これもやはり自己の他者への投影と思われる。共通の認識も共通の理性も基本的にはありえない、この点を基本に置いた上で理性の可能性を考えるべきだろう。
前述したように、他者は『理解できないもの』として『私』の前に現れる。しかし、実際には『理解できない』はずの他者とのコミュニケーションが成立している。このことは何を示しているのだろうか。
近代的な『我々』の残存がそれを成立させていると見ることも出来る。全面的に覆い尽くす『我々』はもはや成立し得ないが、ある集団がある文脈において『我々』となることはより多くなっている。その中では理性は成立できる。しかし、これは結局の所、ある文脈の中ではある規約に従うと言う合意の上に成立している。その規約とは法のように成文化されているのもあれば、社会道徳と呼ばれるもののように暗黙の内に承認されているものもある。このような状況下では、他者とのコミュニケーションも可能であり、規約に基づいて理性も可能であろう。
しかし、このような規約を共有しない他者とのコミュニケーションには理性だけでは対処できない。理性は大地の上を歩むことしか出来ず、大地に出来た裂け目は理性が他者にたどり着くことを阻んでいる。そこで重要になるのが『命がけの跳躍』であろう。キリスト教神学やマルクス経済学が教える、この『跳躍』によって『私』は大地の裂け目を飛び越し他者に到達する。もちろん、『跳躍』によってのみ他者にたどり着くわけではない、理性の大地を歩む力がなければ『私』は裂け目にも到達できない。理性と『跳躍』の双方が他者への到達に必要なのである。
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