Diary ~00年06月~

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6月1日(木)

_ 友人関係と恋人関係

_ 例えば、ONEの長森でもTo Heartのあかりでも、友人(幼馴染)関係から恋人関係への
変化に伴っての事件がシナリオ中で描かれる。
長森の場合には「えいえん」というONE特有の概念があることは確かなのだけど、
とりあえず、それは置いておくとして……

_ 山本弘が今日付けで発売の妖魔夜行の新刊「戦慄のミレニアム(下)」で語っているような意味で
この変化に伴う事件は過冷却に例えることが出来る。
つまり、2人の間の関係があまりにも安定的である場合、通常であれば恋人関係へと
遷移すべき段階にまで至ってもなお、友人関係が維持されつづける。
だが、不安定さは潜在的に蓄積されつづけ、「試験管に加わった衝撃」によって、
一気に「あるべき」関係に遷移する。

_ この遷移に伴って解放される蓄積された不安定さのエネルギーは、過冷却状態がどれだけ進行していたか、
すなわち、2人の関係がどれだけ親密であったかに、正比例する。
(この辺は過冷却とは異なるので、本当は(プレート型)地震にでも例えるべきなのだけど)

_ この衝撃の大きさはあかりシナリオに端的に描かれている。
そのような衝撃の回避策として、以前は批判した恋愛における儀式性が意味を持つのかもしれない。

_ 無論。この批判の結部にあるように、そもそも、恋愛関係を他のそれとは隔絶した関係と見る、
そのような習慣(ノモス)が無ければ、友人関係から恋人関係への遷移などは元よりありえないのであるが。
ともあれ、我々はそのような習慣の元に生活している以上は、習慣を無視することは出来ない。
2人の関係が、真琴と裕一、佐祐理と舞のように、習慣などは気にせずにやっていけるだけの
「確実さ」を持っているならば、ともかく。
そうではない2人の間では、「とりあえず」共通のものとして習慣のみが存在するのである。
そして、あかりシナリオや長森シナリオで描かれるように、遷移に失敗し、破綻を迎えてしまった関係の再構築に、
2人に共通なものとしての習慣は、有効に働いている。

_ だからといって、儀式を前面に出しさえすれば、安全に遷移が出来るのかというと、そうではない。
その儀式とは行為(言語によるものでも、言語以外でも)によってなされるのであり、ここここで書いたことと関連して、
その儀式は、新たなる関係の提案であり、そして、中間的な関係の押し付けである。
すなわち、告白を聞いてしまった以上は、もはや、それ以前の関係へと戻ることが出来ないのである。
儀式を持ちかけられた側に出来る選択は、友人関係か恋人関係かではない。

_ 結局のところ、幼馴染のような友人関係にある者が恋愛関係を意識したときに置かれる背理とは、これである。
進行中の過冷却状態は時を重ねるほど、その潜在的な不安定さは蓄積していく、
そこを強引に遷移させようとすれば、あかりシナリオのような問題を経ずにはいられないし、
儀式的に進行させることでも、その儀式を行った時点で恋人関係へと向かう以外に、
安定的な関係は無いのである。

_ *:支離滅裂な上に、ドイツ語病でごめんなさい


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6月4日(日)

_ 久しぶりに週末に予習をしなくてもいい状況なのだけど、
毎日コンスタントに頭使わないとダメになるので、雑想を書き留めてみる。

  • 偽理論(この理論は使用上の注意(*1)をよく読んでお使いください)

_ 「信じつづけていなければ、かなう事はない」
かなうということが(それ以前の)信じることを含意している以上、当然の事。

_ では、この命題の前件と後件をそれぞれ否定にした命題、「信じていれば、かなう」はどうか。
カントが実践理性批判で書いたような意味で、我々(の魂)が不死であるならば、
願いがかなうという事態にいつかは到達しうるだろう。
もっとも、その場合では信じていなくても、その事態に到達したかもしれないのだが。
だが、魂が不死かどうかについては何も言えないし、少なくとも肉体的な意味では死ぬ(と言って間違いない)。

_ では、「魂は不死である」と信じているとしたらどうか。
あるいは、「死は世界における変化ではなく、世界の終わりである」と信じていた場合には。
この二つのどちらかを前提として採用するならば、「信じていれば、かなう」という命題は真と言い得る。

_
*1:この理論はあくまでも偽理論であり、哲学屋、数学屋、理論物理屋などの前で披露するとひどい目に会うことがあります。
 ご注意ください。


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6月9日(金)

_ ベルク師(宮城県立大客員教授/地理学・日本論)の「風土論」による、Kanon解釈、原案。

_ 風土論的立場では、「存在には場所が必要」とされる。
「場所」とは、物理学的な意味での場所と意味論的な場所の双方を含む。
そして、この場所は単に意味論上の抽象的なものだけでなく、具体的な物理学上の側面を持つ。

_ あゆの学校、真琴のものみの丘、舞の麦畑……
彼らが存在すべき場所として、これらの場所が必要であった。

_ ところで、風土論の古典「風土」を著した和辻は、Heideggerの「Sein zum Tode」に対して
「生に向かう存在」と人間存在を表現している。
人-間と言う存在において、死は人の終わりではあるものの、間(共同体)は存続する。
だから、誰かの「場所」とは、誰かと誰かの「場所」であり、
人の死によっても、「場所」は間の基盤(Subject)でありつづける。

_ 例えば、
あゆが落ちた後に、切られてしまった大木の問題。
舞が麦畑を魔物から守りつづけなければならなかった理由。
真琴と祐一の結婚式がものみの丘で行われたこと。

_ そして、強調すべきことと思われるのは、
意味論上の抽象的な場所ではないということ。
麦畑の圧倒的なまでの美しさは、確かに物理学上の外形によっても、与えられているのだから。

_



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6月13日(火)

_ お待ちしておりました(笑)
とりあえず、完全ゲームと言う語は、雪駄さんの解釈通り完備情報のゲームです。
曖昧なままに使って、失礼しました。

_ しかし、毎度毎度ながら雪駄さんのゲーム論には感服させられます。
ゲーム好きの端くれとして、反省することしきりであります。
メタ的な楽しみ方は楽しいのだけれども、それ以前にゲームそのものの面白さってのもあるんですよね。

_ んでもって、やっぱり雪駄さんとこの第二掲示板「Windy Avenue」での真琴と家族に関する議論について
家族って何でしょう。
父親、母親、子供というロール(役割)から構成される核家族を最小のエレメントとして、ある程度拡張されたもの。
……ではないと思うのです。

_ EVA(のSS)で描かれるようなアスカ、シンジ、ミサトの「家族」関係。
中国の客家の円楼を始めとする、人類学が報告するさまざまな家族形態。
あるいは、Wittgensteinの「家族的類似」という概念(*1)。

_ 「(近親婚が禁止される)近親者とは、近親者としてその社会で認識されている人々である。」
という、インセストタブーに関する文化人類学的な見地を準用するならば、
「彼ら(家族の構成者)が家族である」という自覚ないしは社会的な認知(承認?)が、
家族を家族として規定するのではないでしょうか。

_ 特に自覚という見地に関しては、真琴シナリオにおいて、もう1つ重要な点、
すなわち、祐一と真琴の関係があります。
儀式に関しては、1日に書いた文章の習慣と儀式に関するあたりを参照した上で……
「結婚式」という儀式に集約される二人の関係は、恋愛およびその発展形態としての
結婚を経た家族であるのでしょう(*2)。
そして、儀式を遂行する我々としての自覚があれば、
(この辺、ちゃんと、我々と考えられてたか、真琴シナリオは曖昧だけど、結婚に関しては少なくとも)
それはそれで恋愛関係や家族関係じゃないでしょか。

_ 友達(などの親密な関係)から恋人関係への恋愛ネタに良くある、
「気づかなければ良かった」という発言(or 感情)は、
この自覚という問題に由来しているはずです。

_
*1:「家族的類似」は後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論での鍵概念の1つで、基本的には
クラスとメンバーに関する概念なので、前掲の2つの例とは、問題としている意味が異なる。

_ *2:その原型は、例の少女漫画「恋はいつだって突然だ」にあると推測できます。


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6月16日(金)

_ 深夜3時ごろ、酒に酔った頭で、電気を消した部屋の中、怪しげに光るディスプレイの前で、
「PURESNOW」「POWDER SNOW」「風のたどりつく場所」などを聞いてみる実験。
すげー、きもちいいわ。コレ。
ちなみに、「POWDER SNOW」はWAのEDで見てみたり。
いや、これが美的対象鑑賞の態度というわけではないのですが。

_ 以下、酒飲む前に書いた文章。

_ 夏コミに受かったことだし、評論本の原稿の準備にそろそろ取り掛かってみたり。

_ 基礎論その1
我々、という問題について。
他者をどのように捉えるかという問題のうちで、他者を「我々の一員として身近な存在」とするのか、或いは「私が私である限り決して到達できない存在」とするのか、という二つの選択肢が出てくる。ここで、他者を他者性の現れとして捉えるのであれば、後者のような他者理解が妥当であろう。他者性に関する考察の必要性や前者のような捉え方での危うさを考えに入れると、少なくとも第一義的な定義は、後者のものを採用すべきであろう。


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6月19日(月)

_ 雪駄さんの3日4日付雑記について……

_ 書こうと思ったけど、混沌の中に落ち込んでいくので、やめます(苦笑)。
言葉を尽くしても、awareness(捏音たむさん)の5分21秒には及ばないでしょうし。

_ ただ、
あの時のあの人の笑顔も、あの夕陽も、あの涙も、今はもうないけど、
それが愛だということも、永遠だということも、確かに知っています。

_ きつねは、おもいでからやってきて、おもいでにかえりました。
それだけでしょう。

_ 16日の続き。
こうして、他者を私とは隔たった断絶した場所に定立するとして、なお前者のような見地に着目するとすれば、それは私と他者の隔絶の間に存在する「われわれ」という名の場だろう。
この「われわれ」という場が、コミュニケーションや他者との出会いの場であり、ひとびとの本来的な立脚点である。この「われわれ」という場において、私と誰かは出会い、コミュニケーションを持ち、愛を見つけて、思い出を共有する。
だが、この「われわれ」という場はきわめて不安定なもので、そこに留まり続けるためには、絶えざる発見・構築・確認が必要になる。「我々帝国主義」という語が示すように、私性のうちに「私」やそこで出会った「誰か」を取り込んでしまいがちであり、逆の視点から言えば、他者性のうちに「私」も「誰か」も取り込まれてしまいがちである。
このように取り込まれてしまっても、「われわれ」の場は継続しているように、あるいはより強化されリアルなものに、見えてしまう。だが、そこでの出会いは単なる自己の写し身であるし、コミュニケーションはモノローグに終始し、愛は偏執となり、その思い出は思い込みに過ぎない。


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6月21日(水)

_ 19日の続き
では、この「われわれ」なる場に、私も誰かも確かにいるということ、この出会いは私と誰かの出会いであり、コミュニケーションを持ち、まさしく愛であって、そうして思い出を形成している、このことが確認されるというが、このことの絶えざる発見・構築・確認(デリダ風に言えば、脱-構築)はどうであるのか。
おそらくは以前も引用した、ウィトゲンシュタインの「確実性について」の13節が参照できよう。
5月の私の発言の前段にあげられているような、一種手続きじみた行為など、無論必要でも重要でもない。実際の生活の中での「われわれ」性の確認は、「われわれ」の中での会話がナンセンスでもなんでもなく、成立しているということで十分である。つまり、後期ウィトゲンシュタインの用語を借りるなら、「われわれ」における文法に従い、また会話によってその文法を示すような意味での、会話である。

_ 香里が栞にとった行動は、このことを明らかにするだろう。あるいは美汐が真琴に語り掛けた言葉「お名前は?」も。
香里が百花屋で栞にかけた言葉、美汐が名前を問いつづけたこと。
これらは、栞や真琴が「会話」の相手として、そこにいることを示唆している。
このような示唆こそ、発見・構築・確認というべきものである。


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6月24日(土)

_ 夏コミ向け評論本の大枠がA5-20P-100部とほぼ決まったので
この部数とページ数に見合うような内容を仕上げるべく、それなりに努力。
原文にあたれるものは、自前で訳出しようとしてみたりするので、なおさら時間がかかってみたり。

_ 雪駄さんはこういってくれたけど、あの発言に関しては、色々な内実があったりするので、気にしないでくださいませ。
言いたいことを言える気合というか勇気(蛮勇かも……)というかは、むしろ、尊敬なのです。私には。

_ んで、23日付雑記のほうにもちょいとコメント。
浩平がしがみつく子供の口約束やただの日常は、現実の中で「夢」を
見続けることに比べれば、ささやかなものかもしれないけど、
あの非日常の一瞬やもう届かない夢よりも、あのときの日常に帰りたいって実感は、僕としてはあって……
もっとも、そっちのほうが重要だと主張できるほどかなぁ、と私は思うのではありますが(苦笑)
その二つはどちらも同じような気がするので。

_ とか書いてるうちに、24日付雑記も書かれたようで。
私も最後の3行に激しく同意です。はい。

_ もしかしたら、そういう永遠な何かをかかえて、
人は、自分や世界を確実なものとして、見ていくのかなぁ、と思ってみたり。
そのことを、ここに求めるなんてことをやったら、怒られそうですけど(苦笑)。


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6月27日(火)

_ 「届かない想い」について、私は十分に考察してこなかった気がする、今日この頃。

_ 祐一の記憶の彼方に押さえ込まれてしまった、あゆや名雪。
雨の空き地で待ちつづける茜。
戦いつづける舞。

_ ハッピーエンドにたどりついて、「想いは届きました。」では済ませられないでしょう。
想いを持ちつづける事とそれがかなう事とは基本的には関係ないのではあるけど
例えば、長森が浩平を呼びつづけて、とりあえずは応えを得た事と比べれば……

_ 浩平がえいえんを見たことも、あるいは、「届かない想い」に入るのかもしれない。
だが、えいえんはともかく、舞のような事例に対して、自己の内部に取り込まれたと断言して良いものだろうか。
舞は、自ら作り上げた虚構の中で戦いつづけては居るのだが、
少なくともその端緒では、その戦いは祐一へと向けた行為であったのは確かであろうから。


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