Diary 〜01年01月〜

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1月2日(火)

_ 新世紀、おめでとうございます
21世紀などという、冗談のような時代に、冗談含みの真剣さで、やっていきたい所存。

_ んでも、新世紀最初のネタは、旧世紀のだったり。
つまり、冬コミ。

_ とりあえず、戦果を以下に列挙。

_ 29日(金)

茶柱プロジェクト - KISS3 (EVA/LHT)
茶柱プロジェクト - ももいろといき. (EVA/LHT)
茶柱プロジェクト - 月の迷路 (EVA/シリアス)
MINNOW - 華麗なるヒコーキ野郎 (天バカ/リヒトホーフェン兄弟)
ニキータ - FLYING FOOLS (天バカ)
ガンパレードジャンキー V0.89 (GPM)
MURDER-PROJECT - PARADICE LOST (GPM)
総力戦 - ゆきゆきて、ガンパレード・マーチ (GPM)
総力戦 - オムニ0083 3 (POWER DoLLS)
POIESIS - COLONIZATION #1 (POWER DoLLS)
機星誅 - お天気がこわれて (lain)
GameDeep - GameDeep vol.3 (総力特集GPM)

_ 30日(土)

高瀬亭 - Quiet Noise (Air Kanon)
高瀬亭 - not an Angel (Air Kanon)
高瀬亭 - 異端審問 (Kanon)
高瀬亭 - 千年の孤独 II (Kanon)
サークルT&K - sentimental (Kanon)
FURURI - 永遠という名の少女 (ONE/SS)
猫蹴り工房 - Winter Colors (Kanon/SS)
これが!堂 - これが!堂画報 巻の壱 (POWER DoLLS)
EPSON98開発公団 - Oh!EPSON PC 2000 12/30号
と学会 - と学会誌第一号(復刻版)
fakelover - fakelover 001 (評論/少年-長野まゆみ・TMR-e)
seraphim - far from ... 〜羽の記憶〜 (評論/Kanon・AIR)
怪汁研究所 - とっぱつがらくた (評論/カップ麺)

_ AC94 - Home
Campanella - inherit the memory 夢を継ぐもの
fragrance - Sacred Time remastered edition
fragrance - イノリ
GML - GML BEST Special - Kanon -
GML - GML BEST Special - Original Style -
lёVё - 夢から、さめない。
Leaps - cheer up!
LittleWing - 蒼天
PopKorn - blanket of snow
Project AMS - just as one likes
ProvisionRecords - 00(luv)songs→01(one)sounds
Rolando - Strawberry Chantilly
ScoundreiRecords - PC-896X
Silly Walker - ギャルゲー増刊"BLT"
STUDIO scene - snowflake
U-Rave - a piacere
U-Rave - LAN
WOODSOFT - AutumnBreeze
WOODSOFT - Themis
きときとブラザー2! - ほわいと まきししんぐる
ねぴあ軍団 - みれにぁむパーティー
音撃創神 - Eternal Feather
初音館 - Teardrop
風音堂 - Variant Leaves
夜の風 - Gale in Regrets


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1月3日(水)

_ KISAさんtatuyaさん影王さん、が卒業文集のOFFについて書いてられるので。

_ 私も、やまさんは……でした。
一方で、tatuyaさんは、あ、こういうので来たかぁ。と思ったのですが。
White(Orange)さんと、影王さんは、かなり予想通りというか、何というか。
で、私や、くわね氏について、どう思ったのかも知りたいなぁ。とか。

_ 最近考えてる事……
例えばあゆが水瀬母娘や栞(美坂姉妹?)のために、犠牲になったとして。
それは確かに悲しい事であるけれども、悲しいと嘆くだけで良いのかという事。

_ 僕の世界の中で、そのような事が起こってしまい、それを嘆く、それは解かる。
嘆き悲しむという態度をもって、僕の世界にその事態を位置づけるという事だ。
だが、それは自分以外の人の主体性とかは全く捨象する次元での問題だ。

_ つまり、あゆが、彼女の世界に対して何らかの態度をもってそのような事態を成立せしめた事。
彼女がこの事態を選択した事は、むしろ彼女の決断を称えるべきではないか、という事。
あゆは、水瀬母娘や栞が幸せに在る世界を望み、それを実現させた。
あゆが居ない、だが誰かに奇跡が起きて幸せが訪れた、この世界を彼女は愛するがゆえに実現させた。

_ 彼の人の決断や愛を示すような行為を、我々は称えるだろう。
もし我々自身がこのように決断や愛を示す事があれば、胸を張って誇れば良い。
感謝も負い目もここには要らない。ただ称揚と誇りとがあれ。


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1月7日(日)

_ 4〜5日に行なわれた豆満江の新年会の時に買った、ぷらっとほーむ&OKIの
MINI KEYBORD IIが良い感じ、今もこれをつかって書いているけど。
さすがに表計算とかをするにはテンキーが無いのが難点だし、
机の上の配置上、長文を書くにはちょっときついのだけど。

_ んで、そのときの新年会なのだが、さすがに2300〜0800のカラオケは辛かった。
何せ、今までなら終了時間の0500になっても後3時間も残ってるし。
風邪引いて体調が悪かったので、存分に歌えなかったのが心残り。

_ 更に4日は東京タワーにも行ったのだが、そこから秋葉原へ歩いて移動した時に見た世界の美しさがなんとも。
二重橋前から見た霞ヶ関に沈む夕日とか。

_ んで、6日に仙台に帰る。
今回は財布に余裕があったので、スーパーひたちを全区間(上野→仙台)制覇。
何というか……楽な鈍行?
新幹線だと「これから俺は移動するぜ」的な緊張感があるんだけど、
それよりはむしろ、長距離鈍行の「何か乗ってたら着いちゃった」という感じ。

_ しのぶさんの1/6付日記
む。やはり解ってしまいましたか……。
3日の記述は確かに27日の「天使のお仕事」の記述を意識して書きました。

_ で、「天使のお仕事」からはちょっと離れて。
話は最近流行(どこで?)のプレイヤー(PL)話になるのですが。
とりあえず、PCとPLは区別しなきゃならないわけでして、私は浩平でも祐一でも往人でもない。
そして、私(PL)は彼らPCがいるONE/Kanon/AIRの世界のどこにもいない。
この辺は、『論考』5.6以下に書かれている通りです。

_  5.632 主観は世界に属してはいない。それは世界の限界である。 (L.Wittegnstein, 論理哲学論考)

_ 私(PL)が世界の限界である。
世界がどのようであるかは、その限界である私がどのようであるかに、かかっている。
雪駄さん風の言葉を借りれば、夢を見て実現させる。そんな力や立場をPLは持つと思います。
栞がエンディングで語っている、どこかで夢見ている誰か。
これは、あゆの事と解されている。だけど、PLが見ているPLの世界に関しては、まさしくPL自身のこと。

_ そして、そういった力や立場にあゆも居るのではないか、と考えるわけです。(*1)
もちろん、PLがみている世界はPLが限界であり、PLの夢なのですけど、
別の誰かも、彼らの世界の限界として、彼らそれぞれの夢を見ているのではないかと。
こうした人々の数だけの多くの世界がどこか重なる。
あゆはあゆの世界を夢見て実現し、PLはPLの世界を夢見て実現したのではあるのだけど、
PLはあゆがその様に夢見て実現した事を知っている。
何故知りうるのか、何故重なるのかが、神秘ではあるのだけど。

_ だから、「天使のお仕事」という作品の動機は、確かにしのぶさんの言う通りでしょう。
ただ、やっぱり祐一や栞を直面させるという手法は、どうかなぁ、と思うのです。
あゆががんばった事は少なくともこの私は知っているのですから。
そして、あゆががんばった事は栞や秋子さんに起こった事によって世界に刻み込まれている。
僕にはこれで十分です。……まぁ、つまりは趣味の問題です。

_ さて。
ついでなので書くと、ハッピーエンドってなんだろう、とも思うのです。
例えば、祐一と出会わなかった舞と佐祐理さん、そらが去った後の観鈴と晴子さん。
彼女たちがその時は不幸になったという保証はどこにもない。
むしろ彼女らの強さは祐一やそら(往人)がいなくても事態を解決しうるだけに十分である。
だから、あくまでもハッピーエンドはPLが望む世界がPLの世界に実現できたかが問題なのであって、
PCたちが幸福であるかとか、あるいはPL以外の誰かの世界でPLの望んだ世界が現れているかとかではない。
僕らPLはPCたちの幸福を願うのだけど、それはPL自身の世界で実現せねばならぬ。
とか。

_
*1: 以前チャットで雪駄さんが観鈴についてこの事を指摘していました。
  というか、今回の文は基本的に雪駄さんに半分以上拠っているのですが。

_



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1月9日(火)

_ 雪。
地獄坂(市道亀岡青葉城線:川内老人福祉センター前)の由来を思い知る。
あれで融雪設備が間に合わなかったら、まさに青葉山スキー場全面滑走可能。

_ 偽春菜。入れてみる。家が燃えないために、メモ。
堀江由衣の「水たまりに映るセカイ」を延々と聞く。Happy happy * rice showerとか。丹下桜のMake You SmileとかCatch Up Dreamとかが好きな人は気にいるでしょう。

_ 冬コミで私的前人気1番だった、Little Wingの「蒼天」。
聞いてると泣きそうになるぐらい、好き。アルバム5曲目「あの日、見た空」や10曲目「nikoensis」のバイオリンとか。「nikoensis」はピアノも。私、ピアノとバイオリンに弱いんで。

_ そうそう。
ONE卒業文集プロジェクトアンケートを実施してるんで、ひとつよろしくお願いします。

_ 7日の続き。
7日に書いた文章って、正しい意味でエゴイズムかも知れぬ。
つまり、自己中心的行動ではなくて、自我主義。世界は、私が見る限りの世界でしかない。客観的(objective)世界とは、主観(subject=下に置かれたもの)の上に置かれた(object)ものである事。間主観的世界は、それぞれの世界を持つ主観が出会う場としての超越論的世界、とか。

_ んで、しのぶさんの同じく1/6の、うっちーさんの12/14に触発されたという記述について。

_ しのぶさんの言うところの「一人で何かするのが好き」ってのは、あるいは上や7日に書いた自我主義に近いと思う。遊びとかゲームとかに没頭してるときって、ただの視点としての自分と世界全体という構図を取ってる。あるいは、鉄道とかに乗って車窓から外を眺めるとき、見ている主体(=視点)と見られている対象(=世界)との絶対的な隔絶がある。「誰かと遊ぶ」とは多くの場合、その共に遊ぶ人間を自分の世界の中に位置付けて「誰かで」遊ぶ事になってはいないだろうか。だとすれば、それはやはり視点と世界の構造の範疇の内にある。
で、視点と世界のこの構図の中で、視点である私は世界に対して何かをしたり感動したりする。ここでの行為や感動を誰かに伝えたり一緒にしようとしたりが、「誰かで」でない、正しい意味での「誰かと遊ぶ」だと思う。だけど、それ以前に行為や感動そのものが魅力的だったりする。一緒に行為するとか、感動を伝えるとか、ひどく困難な事で、そんな苦労をするぐらいなら、その行為の達成感や感動をじっくり味わっていた方が良い。
で、オタク論なわけだけど。この行為や感動の魅力をちゃんと知って、その上で誰かに語ろうとするのが、オタクではないかと思うのです。そしてまた、オタクがもっている他者志向性、つまり正しい意味での「誰かと遊びたい」という傾向。オタクが世間に嫌われる一つの理由は「自分語り」にあるのだけど、これって我等オタクの他者志向性の現れではないだろうか。自分の感動や行為を誰かに伝えたくなるという意味で。だけど、常人はそんなものは聞きたくないわけだ。彼ら常人は「誰かで」遊ぶ事には慣れているけど、正しい意味での「誰かと遊ぶ」事など知らない。彼らは、自分の世界を愛する事に埋没してしまって、他者はただ単に自分の世界に位置付けるためのものでしかない。オタクがコミュニケーション不全であるという言説は間違っている。オタクが「常識的」コミュニケーションが出来ないのは、「常識的」コミュニケーションが正しい意味でコミュニケーションとは呼べないような代物であるから。

_ カントの「他の存在者を手段としてだけでなく、常に同時に目的として妥当するよう行為せよ。」とか、加藤尚武がニーチェを評した言葉、「ニーチェという人は、支配者でも奴隷でもない友人が欲しかった」とか。

_ ちなみに、このWEB日記というスタイルは非常にオタク的なスタイルだと思う。
ここで行なわれているのは、むしろ議論ではなく、自らの愛を語り、他人の愛を知ろうとする事だと思うので。
……何か恥ずかしい事言ってる気がする。


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1月10日(水)

_ 雪がとければ、シャーベット地獄。

_ 夏に向けてゲーム系評論サークルを立ちあげるべく、検討中。とりあえず、夏コミ申込書の通販申し込みはしたのだけど。今の所、サークル名は「北部同盟」、年2回B5-32Pとかで発行する算段。原稿がなければサークルも本も無意味なので、書いてもいいよって方、募集中。とりあえず、私はRave Racer Cityで何か書くと思います。

_ しのぶさんの10日付日記について。
基本的な部分では、しのぶさんと差異はないと思うのです。
私も、物語世界と私(PL/読者)との間には断絶があると思います。ただ、その断絶とは私が物語世界に含まれないという事であって、物語世界に関われないという事ではない。私は世界を見ることで世界に関わっている。これは相当に決定的だと思います。世界は一般に誰かが見るところの世界という形式を取るからです。誰も見ていない世界、自己完結して蠢いているような世界はありえるのかもしれませんが、観察されない以上それ以上の論はナンセンスです。この辺りは、しのぶさんが表明されているとおり、件の作品群をゲームとして見るか、物語として見るかによっているとも思います。
だから、私が見た世界で観鈴やあゆが幸せになったとしたら、それは私が見たからです。麻枝が書いたからではなく、私が読んだから観鈴は幸せになった。そして、彼女たちの幸せを予期し願いながら、ページをめくった/クリックした/選択肢を選んだのであれば、私の世界(私が見る世界)の内で観鈴の幸せを実現したと、言える気がします。
この辺の議論については、未だ研究中なので明確ではないのですが。

_ 注釈として。
しのぶさんが後半部分で言われている事にも関係しますが、私が物語世界に関わるとき、それはもちろん幸せを願う事などに限定されるわけではありません。観鈴や真琴ががんばった事、哀しい事に行き着いてしまった事、でも彼女たちはそれを単なる悲しみとは捉えてない事、云々。こうした事を私が見届ける事、これもまた物語世界に対するひとつの実現だと思います。
愛という言葉が許されるならば、僕が愛するのは、観鈴やあゆや真琴ではなくて、僕らが見て実現した世界、彼女達が何かを達成しているのを見届けた世界、その世界の事なんじゃないか、と。

_
前段の最後の文章を書いていたら、AC94YKの「HOME」に収録されているヨーグルトさんの「伝承 -forklore-」が流れてきて、鳥肌。


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1月11日(木)

_ 会社に行ったら、データ整理の仕事だったので、午前で会社を抜けて家に持ち帰って作業。顧客の所行って、作業方法教えてもらったり、家から直接納品だったり。社員化が激しい。昼寝して17時から作業して、結局日が変わるまでかかる。

_ にょ。だって、オレンジなんだもの。

_ KISAさんを始め、話題になってる(笑)、CorkBoardの件。
私はオフィシャルに対して冷淡な人なので興味ないのですが。この件について友人と話していて、「知ってる人でも何人も買えなかった言ってるね」とか話してたら。「それなら何冊かまわしたのに」とか。あんまり、その手のまとめ買い関連は良い印象ではないのだが。「転売とかの手にかかるよりマシだよ」と言われて、確かにそんなものかなとも思う。実際、今回我等も似たような事を別ジャンルでやったわけだし。
しかし、売れると解ってるのに増刷したり再刊したりしないのは何故だろう。HM関連2誌なんて初版の3倍ぐらい通算で刷っているのだが。売れない恐怖を知っていると、売れるのに売らないなんて考えられない。ジャンルの違い?


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1月12日(金)

_ 学部の友人たちと鍋で飲む@いしがき邸。絶好調な腹の具合だった故、あまり食わず、酒も飲まず。例によって、働かず、食う、寝る、仕切る……すまぬ。日が変わって0300ごろから、木町通のガストに移動。やっぱ、ロイヤルホストの方が良い。どんぐりの背比べかも知れんが。コストパフォーマンスの悪さとか。絶対的なパフォーマンスの問題もね。0500前にタクシーにて家に帰る。1530円也。

_ んで、付き合ってい[る/た]女の気持ちがわからないとか語る某君に答えて、相手の箱の中のカブトムシにこだわるんじゃなくて、とりあえずカブトムシについて語れば良いじゃん、とか叫ぶ私。今日のキーワード、カブトムシ(*1)。フッサールの「自我の固有領域」がカブトムシだとか。相手のカブトムシを知ろうとしても、彼女が自分のカブトムシについて語るのを、男は自分のカブトムシを参照する事によってしか理解できない。んで、彼女の箱の中には実際にはカブトムシなんぞは入ってないかもしれない。で、だとしても我等はカブトムシについて語る事ができるわけだ。カブトムシは箱の中にではなく、我等が語る中に現れる。
3日7日9日10日に書いた世界がカブトムシなわけで、この場合。……とか書くと、誤解と混乱を招くな。
で。3〜10日に書いてた世界ってのは基本的には「箱の中のカブトムシ」に該当する。我等は個々のカブトムシのみを見る事ができる。んで、箱の中を覗きこんでいる我等は箱の中には居ない。居ないが故に、その見るという行為を通して、箱の中身を決する事ができる。と、ここまでが『論考』的な立場。
で、我等が問題にしていたカブトムシは本当はどこにいたのか、という問題が『探求』における私的言語批判。我等が箱の外に居るのは確かだけど、その箱とは我等がそれぞれに抱え込んでいるものだろうか。カブトムシがどのようなものであるかは、我等がカブトムシをどのようにして語るかによっている。我等がまっとうにカブトムシについて議論する事ができる以上、我等はその点で一致しているわけだ。我等が、その一致の上でカブトムシを語る以上、そこから我の箱の中身が捏造され、同様に君の箱の中身も捏造される。

_ ……ごめん。混乱して来た。やはり、この辺が今ひとつ不明確。
ちなみにこれに関連して、ゲーム構造の多重性。GPMとかAIRとかフロレアールとか。考えてたり。

_ うっちーさんの11日付の件については、13日付にて。
とりあえず、書いてたら14日になってしまったので、アップロード。

_
*1: L.ウィトゲンシュタイン, 哲学探究, 第1部 293節


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1月13日(土)

_ 飲み会から帰宅後、寝倒す。昼過ぎに大学生協に買い出しにいったのだが、結局まともな活動をしたのは1700時以降。

_ KISAさん1/12の記述にちょっとだけ反応。「システム化した共同購入も、効率面で非常に理に適っているとは思うけど、購入自体の楽しさが失われそうで。」というのは、確かにそうなんですが。一方で、そうしたシステムを組み上げる特有の面白さもあったりします。なので、ジャンルが被ってる人々(=担当が自分の欲しいジャンルになる)と、午前中ぐらいで終わる量(=午後ゆっくり挨拶周りができる)で、システムを組むのであれば結構良いものです。

_ うっちーさんの11日付の件。
中島梓と宮台真司の件は了解です。宮台はともかく中島は手元に件の本があるので、読み返さないとならんですね。ただ、コミュニケーション不全→オタクという構造はオタクの範疇をむやみと広げる気もします。ある人がオタクであると呼ばれる必要条件が、コミュニケーション不全という事になりますので。私の意見では、それはせいぜい十分条件でしょう。
それと、コミュニケーション不全の基準ですが、哲学屋がその辺に苦情言い立てるのは結構普通だったりします。更なる揚げ足を取るならば、うっちーさんが言う “より多数的なコミュニケーション” なぞ、コミュニケーションとは呼べないのですし。
それはともかく。私が主張する、
視点と世界のこの構図の中で、視点である私は世界に対して何かをしたり感動したりする。ここでの行為や感動を誰かに伝えたり一緒にしようとしたりが、「誰かで」でない、正しい意味での「誰かと遊ぶ」だと思う。 (2001,1,9)
というのは、9日にも書いた通り、結構ニーチェの超人思想に通じる所があると思う。私の把握が正しければ宮台はニーチェ思想を使ったりしていたので、ニーチェの位置付けとかも検討の必要があるでしょう。とりあえず、オタクが「超人(になりえる存在)」か、それとも「牧人に率いられた羊の群れ」か、という点が議論になろうかと。

_ で、おそらく双方の議論に説得力を持たせるには、うっちーさんの「中学生の時に起こったとある事件」とか、私においてそれに相当する例のアレとかについて語ってしまうのが一番手っ取り早いのでしょうが、それは少なくともhttpで話すような代物ではないですね。まっとうな議論として成立させる為には、そういった面を捨象しても成立できる論を組み上げねばならないし。

_ あ、それと。うっちーさんと私が被ってるプレスな同人CDはどちらも相当の出来栄えですので。期待をもって聞かれて大丈夫かと。


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1月14日(日)

_ しのぶさんの11日付日記について。
この議論は、卒業文集で影王さんとくそんさん、GameDeepで雪駄さんWhiteさん、更にはOFFでくわね氏といった方々ともしているのですが……関連文書群を統一して参照できる方法はないものか。と、これは余談。(名前を列挙する事で、横から口出ししてもらう事を狙ってるのは確かです(苦笑))
で、本題ですが。私としのぶさんが異なっている点については、しのぶさんの指摘通りだと思います。観察する事は物語世界に関与する最低のラインはクリアしている、と私が考えるのは、ここで書いた(書きかけですが)AIR篇における「そら」の考察から出発してるのですが。
それで、「はてしない物語」が引用されている節についてですが。しのぶさんが重視したいと言われる「元々あった世界を誰かが発見する」という側面。お気づきかもしれませんが、これを、9日に書いた「誰かと遊ぶ」という事や12日に書いた『探求』的立場とつきあわせてみると面白いかもしれません。「元々あった世界」も、(私ではない)誰かが関与している(観察している)ことで成立している世界ではないかと思うのです。例えば、観鈴やあゆが関与する事で成立している世界です。

_ 彼女の世界を僕が観察するとき、自分自身の箱の中のカブトムシを覗きこむ構図から脱却できるとか何とか。でも、その場合、彼女の箱の中を覗きこむという構図ではありえないわけで。「誰かと遊ぶ」のように共にそれぞれのカブトムシを語り合っていくうちに、『探求』的な意味で一致が現れる……あるいは語り合う以上一致がある。一つの世界を夢見ていく事ができる。
ただし、ここでは以前にうっちーさんと話した問題 (うっちーさん 12/8 - C.F 12/9) が起こるのだけど。


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1月15日(月)

_ 卒業文集の編集業務をしたり。スタイルを統一したりとか、行数をカウントしたりとか。原稿殆ど書いてなかったり、ゲストまで呼んだ企画が流れかかってたりで、実は「仕事してないやつ」(c) GPM なので、少なくとも最初に与えられた仕事(=編集長(笑))だけはまっとうしよう、と。
ところで、私は「おねぐらっど」と呼んでたりします。

_ 10日の新規サークルの件。サークル名を予定と変更、会誌名と揃えて「das Nordland」として立ち上げ。コンセプトとしては、ゲームをダシにして徹底的な何かをしよう、と。おそらく、やりこみと評論が同列に並び、場合によっては同じ記事の中で行なわれる事になるでしょう。サークル実務的には、編集販売等は自前で行なう予定だけど、本作りの面では豆満江開発機構に依頼する形式(=ファブレス)で行くつもり。と、いうか、豆満江開発機構東北支部のブランドという説も……。

_ とくそんさんの1/15について。
何というか、議論の核心を突いていると思うのですが。いや、冗談とか抜きで本当に。未だ証明されてない命題について、一般にはそれでも真偽いずれかは定まっていると考えるのだけど、「数学における直感主義」では「真偽不定」とする、とか。殆ど読んでないので解らないけど、ウィトゲンシュタインの『数学の基礎』とか参照のはずです。
わしはAIRを外箱しか見た事は無いが、これを買えば多分『観鈴』っー娘に逢えるだろう。さて、観鈴は存在するか?
についてですが、外箱しか見た事はないにせよ、現にこのように観鈴について何らかの議論が存在するわけです。また、発売日前にファンサイトが成立してしまったりするわけです。「Game Deep vol.3」での対談にも話題が出ましたが、ゲーム(世界)はパッケージに完結するものではないので。
こうした議論が成立する以上、我等はどこかで一致しているわけです。そのどこかこそ「本来いる場所」なのかもしれません。浩平が見つめた、そらが飛び立っていった、その先とは……。


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1月16日(火)

_ 2/12に都産貿で開催のBS8BNL7、どちらも当確。当日はBSにて「ONE卒業文集」、BNLにて「プロジェクトX 心を持つロボットを作れ」が新刊頒布の予定。もちろん、どちらか一方でも2冊とも入手できるようにしますが。

_ こんなのがあるようです(情報元:Whiteさん)。20世紀に可能だった最高作品とまではさすがに楽観視は出来ないのですが、bestを目指すmore betterな作品としては評価できるかと。とくに、bestに自覚的である点とか。


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1月17日(水)

_ しのぶさんから、水入りの提案があったので、今日の記述は休みにして議論を辿りなおし。とくそんさんの1/17、うっちーさんの1/17への反応も今日は休みにします。

_ それで、一応この議論からは離れてうっちーさんの1/16のオタク話。問題点としては、「現実を切る切り口としてそれなりに有効なのも確かではあります。」という見地は、よく解らないぐねぐねとした現実をある手法で切って見せる事でまさに「現実」として確定してしまう、という側面を持つ点でしょうか。
おそらく私が納得出来ないのは「残ったのは現実を<物語>として生きるか、現実ではなく<物語>に生きるか (宮台, 1994, P.188)」この分別が十分に分別点として機能するか、という点です。結局、方法論に帰着するのですが、この場合の現実は「人々の同意」としての現実だと思うので。それはやはり、同意があるだけで、ある種の<物語>だろう、と。
水入りになっている件の観鈴話にも関わる事なのと、あまり方法論に拘るのも建設的でないので、これ以上は止めておきますが。なお<物語>という見地に関しては、これまた未読ながら、野家啓一「物語の哲学 - 柳田國男と歴史の発見 -」(岩波書店, 1996)などを思い起こします。


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1月18日(木)

_ 論を明確化するために、多少補足的な事を。

_ うっちーさんの1/18にコメント。観測可能性問題という指摘は正しいと思うのです。ただ、この場合、例の量子力学における観測問題とは、構造的に類似していますが、別種の問題である事に注意が必要かと思います。
量子力学における観測問題の場合、「箱を開けて観測する」行為が「箱の中身」を収束させてしまう点が問題とされているのですが。一方で、「箱を開ける」以前にも確率としてではありますが、「箱の中身」について記述がなされています。
それに対して、「行為 -> 物語」ではないかと考えるような場合、行為(この場合は「箱を開ける」こと)は、まさにその事自体が「箱の中身」についての記述であり、それ以前には記述そのものが成立していない。この差異には注意すべきかと思われます。
すなわち、量子力学的な見地からは観測/観測対象/記述という三者の差異が、それらの相互関係はあるものの、依然として残るのですが、「行為 -> 物語」とする場合では三者は一体となってしまっていると言えるでしょう。


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1月19日(金)

_ 雪駄さんの1/18(アンカーが入ってないので、次回更新で消えてしまうかもしれないけど)。

_ それにつれて自分の中で「書く」っていう行為への強迫観念は薄れていった。
伝えられたのなら、残せたのなら、続いていくのなら。もう書かなくてもいいかもしれない、この世界から消えてもいいかもしれない。
そう思うようになった。

_ この感触には非常に共感なのですが。でもやっぱり何か残る、と。tatuyaさん曰く「澪は待ってくれない」。でも、我等はここで待ってます故。と、言うか、戻ってこない事には何時まで経っても本にならないし(<脅迫)。消えようとしたって「あなただけは許さないから」とか。男の子(?)に言われても嬉しくないか。
「えいえんはあるよ。ここにあるよ」。ここってどこでしょう。

_ そんな感じですので。


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1月20日(土)

_ Wayneさんの1/20。メンバーのページは毎日何回か巡回してます……別に義務感とかじゃなくて、楽しいので。IRCで発言しておけば、手軽に返信も出来ますし(*1)。
KISAさんの日記は、卒業文集以前から読んでたりします。夏コミ直後ぐらいからかな……。私は誰かが書いた文章を読むのが好きな人なので、特に毎日更新とかだと忘れずにチェックするので、なおさら。

_
*1: 卒業文集ではIRCの某チャンネルを使っていて、そこに私とうっちーさんのログ取りが24時間常駐、httpにログを定期的に展開するというシステムになってる。なお、このシステムの重要な部分はWayneさん作のツールが担当してる。感謝。


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1月23日(火)

_ONE卒業文集」の追い込み中。
遅ればせながら内容紹介を設置、速度戦精神で革命的宣伝戦を開始する。


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1月31日(水)

_ONE卒業文集」はDTP段階に移行、編集統括としての仕事は一段落。次にやってくる仕事は、当日に向けての諸準備か。これは入稿後から始めるでしょう。DTP担当のくわね氏以外は原稿も一段落ついて、久しぶりに原稿以外の話題でIRCで語る毎日。2日連続で朝7時のニュースを見るとは思わなかった。

_ さて。Whiteさんの「ただ1人のための日記」。
私は(Wayneさんとは異なり)Whiteさんが何を考えてたか触れる事ができる。それは、Whiteさん本人が、何を考えて書き始めたかについて語るのを目にしたからでもあり、以前にWhiteさん自身の話に触れたからである。私は誰かの世界に触れる事を好む。友情なんてものを真剣に信じている私は、誰かの世界に触れ、私の世界を示し、そして何かが出来れば良いと考えている。できることなら、Wayneさんの世界にも触れてみたいものだと思う。その方法は、開かれている。

_ 何かを感じる時がある。
例えば、この日記を書くべく準備しているときに、偶然今日買ったCDの最終トラックがかかり、それがVictoria Williamsがカバーした名曲"WHAT A WONDERFUL WORLD"だったりする。思えば、初めて物語で泣いたのは中学か小学校かの頃、C.S.ルイスのナルニア国物語シリーズ最終巻「最後の戦い」を読み終えたときだったか。物語のクライマックスとBGに聞いていたFF3のアレンジ「悠久の風伝説」のエンディングとが重なった時だった。読み終わった後、実家の部屋から見えた夕焼けとNTTのアンテナがイメージとして刻まれている。最近では去年の夏コミからの帰り道に見た虹だろうか。

_ 突如として世界が見えてくる時がある。
体験そのものは以前からあった。だが、その事に気付いたのは最近の事だ。私が愛するのは人でも物でもなくて世界だ。ほんの一瞬の事。どんなに長く続いても数十分。私に課された時間に比べれば、一瞬に過ぎないその時間を思って、願って、私は生きている。
一瞬と、それへと収束する他の全ての時間。

_ And I think to myself what a wonderful world.

_ 最近の入手品。

ポ−ル・ドゥ・ゲイ 他『実践 カルチュラル・スタディーズ -ソニー・ウォークマンの戦略-』(暮沢剛巳訳, 大修館書店, 2000)
Voce: Music from Woman of the World
IZZY - Ascolta


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