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私の場合、どちらかというと「出ない」方が多いもんで。消化管の中身は詰っているはずなのに出ないという……。下りっぱなしより、こっちの方が辛いです。正直。
ああ。上品な話じゃなくてごめんよ。
_ 昨日のフッサールのゼミで話題になった、「猫に超越論的主観性」を認めるかという事と、この記事「「猫」にハマるゲームデザイナー(ZDNN)」をつき合わせて考えてみよう。
_ 猫はゲームをプレイする事で世界を構想するか。あるいは、ゲームをプレイする自分を発見するか。
_ 昼飯買い出し、自転車空気入れのついでに古本屋。
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_ 最後のはともかくとして。(ただ最終刊が欠けてただけ)
_ 一応、それなりに進路関係で今更のように悩んでいる現状なので、白倉の作品には微妙な感触が。そんな甘っちょろいものじゃないのは百も承知の上でも、微妙に共感してしまう自分がダメダメ。
_ ほんとは、この手のははったりと虚飾が楽しみつつ、「過去の」思い出に浸るようでないとダメだとは思うのだけどね。ONEとかとの付き合い方にも似ていて。
_ なんとなく、この日記では政治ネタを長らく封印ネタにしてきた(つもり)のだけど。微妙に気になる話題があるので解禁してみる。nDiaryアンテナに捕捉されて、ゲーム系じゃない人も見るようになってるようだし。多少間口を広げてみよう。
_ で。件の歴史教科諸問題とか地方参政権付与問題とか。韓国/中国etcの政府が日本の内政に口出しするなとか、そう言う言説をそれなりに目にするのだけど。
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これは不当な説だ。
内政干渉とか、そういうのは基本的に戦争とかの武力を背景とした外交手法が正当だとされた時代の原則であって、今なお十分に正当な原則であるとは言いがたいだろう。歴史的/地理的/経済的etcの依存結合関係は19cの頃とは違うのだ。
他国の言い分にそのまま従う義務はもちろんない。が、他国に口出しする権利は保障されるべきだ。ミサイルを撃ってみたり、核実験をしてみたりした国に対して抗議する権利もなくてよいということか。自己に認める権利は、他者にも認めるべきである。
というような事は、私が選挙権持ってる国の憲法に含意されているような気がするのだが。
_ 親戚関係の鈴木。
_ 中高時代の鈴木。
_ 大学の鈴木。
_ 思ったほど多くないなぁ。もうちょっといるかと思ったのだが。
_ Windows Updateにアクセスしてみたら、Win2kのATI Rage128系統用ドライバがアップデートされてた。
_ 入れてみたら、ドライババージョンが5.13.01.239で、ATIの正式リリースドライバ(5.13.01.192)より新しい模様。
_ ちょっと思い立って、FreeBSD(98)をPC-x86エミュレータ「Anex86」上で動かしてみる実験。
_ テスト環境は以下のとおり
PC-AT互換機 (Kaorin 参照)
Windows 2000 SP2
Anex86 v2.42.1.521
FreeBSD(98) 4.3 rev.1
_ 拡張メモリを最大の14MB確保した以外はANEX98の設定はデフォルト値。
_ 以前作っておいたDOS6.2環境にFTPで取ってきたrawrite.exe、kern.flp、mfsroot.flpを転送。DOSで起動して、通常通り rawrite kern.flp b: とかして、まっさらのFDイメージに書き込み。
_ そのFDイメージをセットして、再起動。ディスクの入れ替え、Kernel Configuration Menuを経て、/stand/sysinstallが起動。(画面キャプチャー 起動直後 / sysinstall 画面ははめ込み合成ではありません)
_ とりあえず、今日はここまで。
_ 色々といじってみた所、以下の感じ。
_ とりあえず、今日はここまで。カーネルのリビルドも試してみるつもり。
私が私のものと称するこれら一切のものを伴った私自身は、この厳密な自然必然性の一項である。或る時があった、----この時に生存していた他の人たちがそう私に言い、私自身も推論を働かせてみると、自分ではそれを直接的には意識していないが、そのような時を想定せざるをえない、----まだ私が存在していなかった時があった、また私が生起した瞬間があった。私はただ他人のために存在していた。まだ自分のためには存在していなかった。その時以来、徐々に私の自己意識は展開し、私は自分のうちにある能力や素質、欲求や自然的欲望を見出した。----私は或る時に生起した一定の存在者である。(J.G.フィヒテ, 人間の使命, 訳は「世界の名著43 フィヒテ・シェリング」岩崎武雄訳による)
_ 私が生起する以前の「他人のために存在していた」私は、生起した後の、自ら見出した後の私とは異なるのではないか。私が生起する以前の私という表現は奇妙ではないか。
_ 「この時に生存していた他の人たちがそう私に言い、私自身も推論を働かせてみると、自分ではそれを直接的には意識していないが、そのような時を想定せざるをえない」とある。私が生起する以前の私、これは生起した後の(本来的な意味での)私に対して、その時に生存していた人たちが教えることによっている。
_ そうであるならば、「他人のために存在する」私とは、私が生起しているかどうかには、本質的に関わりがない。問題となるのは、過去そのものではなくて、現在、他者が私に伝えてくる「他人のために存在する」私と、私自身が見出した(本来的な意味での)私との不整合と、その解決である。
_ 思い立ってVNCをセットアップ。
_ サーバー機とクライアント機双方に、WinVNC for Win32のバイナリを調達してきてインストール、すかさずTightVNC化して、サービス設定して。Tight化する前にサーバー機ではサービス化して起動テストしていたので、サービスを止めてから上書きしようとしたら、DLLの上書きでうまくいかんかった。これは、Win2kの問題かな。いったんアンインストールしてから、WinVNCのインストールからやり直す。
_ Preferred Encoding - Hextileでそんなにストレス無く使える。explorerでスクロールバーをぐりぐりやるぐらいの負荷で、CPU負荷率が30%程度。ちょっと大きいけど、管理作業とかCD-R焼き、エンコード程度の頻度でしか作業しないので、問題なさげ。
_ 例によってスクリーンショット。さすがにTV画像の方ははめ込み合成(元はオーバーレイ表示)。デスクトップがどんどん謎になっていく……
_ んで、上のスクリーンショットを見てもらうとわかるのですが、Win2kで「ごみ箱」の名前を変える方法ってないでしょうか。多分レジストリ周りで何とかなりそうだけど。いや、ただ単にアルファベット表記にしたいってだけなんですが。
_ 英語版入れろよって話もありますが、その場合たぶん日本語の入力環境が面倒そうなんですよね。出力は結構どうにでもなりそうだけど。
_ ところで、VNCviewer内のlainの壁紙ひそかに気に入ってます。某所で落としてきたんだけど、著作権的にちょい微妙かもしれない。(オフィシャル版権物の素材を組み合わせて出来ているので)
_ そうそう。 エクスプローラの「ツール-フォルダオプション-ファイルタイプ」でファイルタイプ「フォルダ」の詳細設定で「explorer」を標準にしておく(こんな感じに)と、デスクトップのマイコンピュータをダブルクリックするとエクスプローラが起動するようになります。
_ ちなみに、バイト先のマシンにこれを処置しておくと、嫌われます。ショートカットを「プログラムの起動ボタン」と認識しているようで。DOS時代以来、ファイラーで.exeファイルを指定して起動していた私みたいな旧世代人には、ファイルが見えないと不安なのですが。デスクトップやショートカットも実態はフォルダとファイルですから。ディスク上の。
_ 陽太の魅力というか、なんと言うか。美夏がどういう存在かと問われて「触りたい存在!」と答える場面があるのだけど。これの真実味ときたら他に比類なきほどのものがある。しかも、「俺が触りたいのは美夏だけだ。」と続けてしまう。
_ これは私には絶対届かない境地で。「何故、彼女なのか」を問われたとして、数千字からの文章を捧げることはできるとしても----というか、以前やったこともあるのだが----これは絶対に出来ない。恥ずかしいとか冗談でしか言えないとかではなくて、魂がそういう風に出来てない。出来ていない以上しょうがない。それは百も承知の上で、敗北感と無力感を感じてしまう。
_ ……ああ、そうか。陽太の場合、良くも悪くも発言と行動は一致しているわけだ。だから、発言内容がそれだけではアホみたいでも真実味がこもるし、行動の裏にも何かがにじみ出てくる。むしろこっちの方が根源的な問題か。
_ 「それに俺は規定される」の規定するは、bestimmenであることに注意せよ。規定された=制約されたであることは否めまい。
_ 例えば、先日のJ.G.フィヒテ「人間の使命」の原題は"Die Bestimmung des Menschen"である。あるいは、"Die Unbestimmtheit"はしばしば神と同義である。(ついでに言うと"Unbestimmtheitprinzip"でハイゼルベルグの不確定原理。)
_ Unbestimmtでありえるのは完全現実態(=神)か完全可能態であり、人間は所詮bestimmtな存在である。例えば、前世を背負っていたり、未来を見てしまったりする。そうした「能力」に彼らは規定/制約されている。肉体的制約というのは、かなり一般的な制約であるが、それを超えても制約は残るのだ。
_ 冒頭の言葉にある通り、他人と交渉すること自体が双方を規定することに繋がる。だが、もう一つの人間にとっての関心事である主体性という面を取ってみれば、自他を規定していく中ぐらいにしか、主体性の発揮はありえないかも知れず。カント倫理学において、自己立法が自由の条件としてあったことも関連するが。
_ 徹夜決意の夜の謎話……いや、4時過ぎからのワールドユース見るか。な気分なだけなんだけど。
_ Bump of Chicken「天体観測」のPVをほけっと眺めていたりして。戦う気力、ちょっぴり充填。そう、頑張る/頑張らないの対立軸じゃなくてさ、誠実や信頼といったことをおぼえているか。「本当に」真剣に生きている人間は、真剣さなぞ歯牙にもかけないはずなのだ。梯子を上りきったならば、その梯子は放棄されねばならない。
_ 「私、最後まで笑えていたかな」
_ 例えば、道行く子供に笑いかける余裕がない奴は、どんな理由があろうともダメだ。そんな事すらも出来ないほどに堕さないように注意しよう。
_ そして、想い人を想う中で、色々と混ざってくるのは最早仕方がないとしても、決定的な第一点だけは見失わないようにしよう。それさえあれば、大丈夫だ。
_ 「あの虹を超えていこう」
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