_ ベルトホルト-トルーデの時はともかくとしても、直弥-椎子の場合、計算者であった過去の片鱗を見せた直弥にとって、彼が「行動」した後の椎子の反応は十分に予見可能だったのではないか。ましてや、彼らには共感の能力があった。
_ むしろ、こう言うべきだろうか。直弥が事故を予見したその瞬間に、そこから結末に至る道筋は定まっていたのだと。他人には衝動的とも思える反応の連鎖も、彼ら二人には妥当な道筋として提示される。
_ (例えば、過去にもそうしたからという理由で)こうした事態にはこう対処せねばならないという規範に従っての行動ではない。単純に彼らは一致して行動する。この事故をめぐる一連の事態は、彼らの関係がもたらした「結果」ではなく、関係そのものを示す「根拠」であるといえよう。
_ 元長氏の作品一般にも言えることだが、作品としてのゲームは「作中世界や登場人物たちにとっての、はじまり」で終わる。根拠を求める葛藤が解消される時、初めて真の意味で前に進めるのだ!とかなんとか。
_ ちょいと気になったので成瀬をえちシーン辺りから再確認。
成瀬の世界ですか。見たくても成瀬が見せてくれないですからね。というか、直弥は成瀬の言葉からしか成瀬の世界を知ることができないのに、断片しか成瀬は語らないですからね。成瀬が語らない理由は・・・って、これは「the end of the world」で成瀬自身が語っているか。 (江州さん)
_ ここで要注意なのは、成瀬と直弥の間の断絶よりも、PLと直弥(と成瀬)の断絶のほどがよほど強そうだってこと。なにせ奴らは人間じゃないですから。視覚や聴覚を共有するとか言える奴での「理解」とか「知る」は、我々とは異なる可能性は存分にあるでしょう。
_ 上の椎子ネタ記述を引き継ぎつつ。直弥はあの時点(3時5分とかその頃)で何かを語る事を殆ど放棄している。それは、成瀬の世界を知る事が出来ないからではない。むしろ逆に成瀬の世界と直弥の世界は一致していたのではないか。弾き飛ばされたのはPLだと、どうしても私には思える。
_ さて。以下、やな話。
_ 成瀬が未来に見た「世界の終わり」って、何度も引用しているウィトゲンシュタイン『論考』での一節
6.431 同様に死に際しても、世界は変わるのではなく、終わるのである。
_ として解釈し、「成瀬の世界」は終わったけれども「成瀬と直弥の世界」はさっぱり終わってないのよというのを私は標準見解としてきたのだけど。
_ 逆に「成瀬の世界」はさっぱり終わってないとも読み取れる。あの暗黒の中で、成瀬は外からやってくるものとしての外的世界を失ったけれども、それはむしろ「世界が閉じた」と形容されるべきものではないか。「成瀬の世界」は依然として残っている。あの瞬間「世界が終わった」のは確かだろう。だが、終わった世界がなんなのかちゃんとした言及はない。
_ で、考えたのは、成瀬シナリオで「sense offのスタッフロール2」が流れるかわりに「KtFのスタッフロール2」が(適当に名詞を入れ替えて)流れても、そう違和感はないのではないかってこと。
_ だとすると、どんな世界があの瞬間に終わったのだろう。
何故に直弥は結末の最後までを予見しなかったのか?というのが私には重要な問題に思えるのです。(江州さん)
_ 私としては、結末の最後まで予見していた説をとりたいと思います。江洲さんの指摘する彼らの弱さや葛藤も含めて、全てが予見されていた、と。
_ 結局、あの時の直弥にとって、彼らが直弥を選ぶかより多くの人命を選ぶかといった選択肢なんてモノはなかったんじゃないか。直弥が飛び降りるのも、椎子がわがままな願いを通してしまうのも、彼らが葛藤に苛まれるのも、そういった諸々が予見されていたとすれば、直弥に残されたのはただ一つになる。
_ 道筋は既に引かれてしまっている以上、真剣にそれを歩む事だけが直弥(と椎子)が自由意志を発揮しうる方途ではないか。そしてそれは全てに責任を持つということである。例えば「ああするより他になかったからしょうがなく」という考えは彼らにとって侮辱でしかない。
_ ……というのは神の予定説や機械的宇宙論に対する典型的な自由確保の方途なのですが。
_ それはともかく、この話題を考えているとどうにもONEの事が対比される。「こんなえいえんなんていらなかったんだ」に至っても、なぜ「えいえんの世界」に逝かねばならないのか。とか。
_ 成瀬-直弥-PLの断絶。感覚を共有するのと(他人の)内心を理解するのとは違うというのはあるかと思うのですが、とりあえず内心の理解とかに関して。
_ 直弥にとって、成瀬の内心を理解する基準となるべきものは単に言葉によるものだけではない。態度とか身振りとか。そういったものも理解の基準としてあるわけで。(そして、感覚の共有もここではプラスに働くでしょう)。とはいっても、ここでPLを持ち出す事は結局、具体的に江洲さん・私etc……の実感等も含んで考えられねばならんので、成瀬-直弥での理解についてはともかく、彼らについてのPLの理解はあまり論じてもしょうがないかも。
ご指摘通り、成瀬の世界は終わっていませんね。でも、あそこで「杜浦直弥と織永成瀬の物語」は幕を閉じた。それは最後の五分間に凝縮された成瀬の、直弥の、そしてプレイヤーの構築したあの聖なる瞬間の存在した世界を収めるには、ちょうど良い容れ物だと思うのです。(江州さん)
_ (昨日のKtF的解釈を取らない場合)3時10分に直弥と成瀬の「物語」は幕を閉じた。というのには同意です。ただし、それは直弥と成瀬の「世界」が終わった事ではないと思うのです。
_ ここで終わっていないと形容される「世界」には多分二つの方向性があって。一つは江洲さんの書かれる「最後の五分間に凝縮された成瀬の、直弥の、そしてプレイヤーの構築したあの聖なる瞬間の存在した」世界。コレはその由来からして、3時5分にはじまり、3時10分にはおわるのですが、その限定は単に世界の構造に過ぎないのであって、存在そのものが消えるわけではない。(ONEとかで、幼年期の幸せな日々はいつか「終わる」のだけど、同時に「終わらない」とか昔書いてましたが)
_ もう一つは、椎子の議論からも引き継ぐことになるのですが(というか、私がこの方向が好きなだけとも)、3時10分に幕を閉じた物語がそれ以後の世界を基礎付けているというもの。スタッフロール2以後を穏健に解釈するならこっちかと思われます。
_ 世界に関しては、素晴らしく大雑把に言って、私のは主体が認識する限りでの世界という用法を含む時があるのに対して、江洲さんのは物語が展開する場としての世界と言う用法だと思います。今日のは一応、前者の用法は避けて、後者ので言っているつもりなのですが……どうでしょう。
_ とあるSSを読みながら、夏込み入手品中で最強のふぇいばりっとアルバム「ECLIPSE/MOON」「ECLIPSE/ONE」(UI-70)を聞いてて、泣く。
意志や約束は過去のある一点にのみ限定されるものでは無く、常に現在そして未来との関連性を持っている。そして、それらの内容は端的に真であり、外界や他者による検証にも耐えられる。意志や約束は過去と現在を関連付けていくものであり、記憶がただ単にある時点での記述に止まるのに対し、未来構成的なものと呼べるだろう。
(中略)
パーソナルアイデンティティを与えるのは、記憶の統一性でも身体的統一性でもなく、未来構成的な意志や約束である。記憶の統一性で与えられるのはせいぜい「正当な過去から連なる現在の私」である。だが、未来構成的な意志や約束で与えられるパーソナルアイデンティティは、未来の正当性をも与える事が出来る。
(去年書いた某レポート)
_ つまり、1年も前にわかりきっていた事なのだね。しかし、今書いてる卒論よりよほど魅力的な文章だな。
_ 付き合い始めた頃は合わないとか向いてないとかいわれた彼女。それでも付き合ってく内に、合う所とか魅力的な所とか、結構わかってきて。こいつのために苦労して、いっしょにやってくのも良いと思った。
_ 一方。友達と割り切った付き合いの女の子。時間も関係も、きっちり区別した上での付き合いのはずだった。もっとも、相性としては最高に近くて、いろいろとぶつかることもある彼女とは違って、その辺のコンビネーションは良かった。
_ 彼女と一緒に夢を追いかけるのなら、それなりに辛い道のりで、その友達の子とか他の友人とかとは切れることになるのを覚悟するぐらいじゃないと全然ダメだ。一方、友達とかと今後もやってくとすると、人生結構楽に行けそうなのだけど、彼女に誓った約束は達成できない。
_ ……どっち!?
_ あっちと逃げ出している内にあと2ヶ月。
_ 私が地上で最も落ち着く所は列車の席だったりする。空いていても混んでいても、優等列車でも普通列車でも、着席できてさえいれば一番落ち着く。無論、車両や混雑度が良い方がよりマシなのだが、優等列車は過ごせる時間が短いという欠点(!)がある。
_ 列車にせよ何にせよ、交通機関は当然移動のための手段である。移動、つまりある世界と別の世界との移動の間、我々は第3の世界に一時的に身を任せる事になる。これは睡眠-----そしてその間に見る夢----に似ている。
_ 大学に入って3年半以上、何度も実家のある神奈川と仙台とを往復したけど、今も思い出すのは最初に普通で上京した1年の8月だったりする。
_ という事を、珍しく心安らかになったときに思ってみた。
_ なんとなく感じたので。
_ KtFを現状認識論としてみるならば、それがさっぱり至らないものであるのは明白である。むしろ、通俗的な現状認識論の「パロディ」として受け取るべき代物。これをまっとうに取り扱うのは、フランスが好きすぎた罰が当たっている連中(婉曲表現)のオタク論をまともに取り合うのと同じ……とまでは言わないけど。まぁ、そんなところのでしかない。オタクなり萌えなりをまともに取り扱いたいのなら、まず散乱している資料を収集し整理し……といった地道な作業が必要で……というのは本題から外れるか。
_ (今となって思えば)KtF(のスタッフロール2)で提示された世界像は、元長柾木の手によるとは思えないほどツッコミどころ満載の極論だった。つまりアレは揶揄なのであって、アレそのものがハエ取り壺の出口を指し示しているわけではない。sense offにも微妙にそういう雰囲気を感じない事もない。あの結末で本当にいいのか?というのがどこか残る。
_ KtFでいやーんな気持ちになったとしたら、それはジャン・ロタールの感じた誘惑や絶望や闘争に近づくことでもありうるのだが。
_ 10時過ぎに弘前まで送って頂いて、マツダレンタリースへ。借りたのはファミリアの4WD仕様。大学生協割引でお安く調達した割には十二分に馬力を発揮していたり。
_ 運転がくわね氏。私はナビ担当で。うっちーさんが荷物類とともに後席へ。
_ 経路 : 弘前(1000)--県道3号弘前鰺ヶ沢線-->鰺ヶ沢(1117)--R101-屏風山広域農道-->埋没林--SWAMP!-屏風山広域農道-->十三湖--R339-->道の駅「十三湖高原」(1230)--R339-県道12号鰺ヶ沢蟹田線-県道14号今別蟹田線-R339-->龍飛崎(1400)--R339-県道14号-県道12号-R339-県道12号-五所川原広域農道-R339-->藤崎(1730)
_ バイパス及び観光道路としての広域農道の偉大さを思い知る。あと、県道12号の今泉-大平間「やまなみライン」の整備は素晴らしすぎる。
_ 以下、写真。県道3号(出前 / 今 / 鰺ヶ沢手前)。鰺ヶ沢(五能線 / 海岸)。屏風山広域農道(車窓)。SWAMP!(1)。十三湖(1 / 2)。龍飛(灯台 / 北辺の守り / 風車1 / 風車2 / 階段国道 / 階段国道の看板)。
_ 1000弘前BTのバスで帰仙。今度の機材はJR東北バス。途中、観光バスに強引に割り込まれたことに怒ったドライバー氏が、その観光バスを含む6台からなる隊列を一気に抜き返したり(観観観観観 高 観 -> 観観観観観観高 -> 観観観 高 観観観 -> 高 観観観観観観。という感じ。この間10分ほど)とかのイベントを含みつつも、順当に仙台着。
_ 我が部屋ではうっちーさんが色々作業したりしているのを横目に15時過ぎから2時間ほど睡眠を取る私。その後、19時過ぎにロイヤルへ出撃。いつものように赤くなったり、私がバースデイやったりして、23時過ぎに店を出る。その後、さとうさんときゃらっと氏も含めて我が部屋を襲撃。色々やって2時過ぎに就寝。
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