_ 2日目。お約束通り、1400過ぎにせいるさんとこにお邪魔する。10分弱ぐらい?おしゃべりしたり、CFからSSをコピーさせてもらったり。
_ いろいろお話しているうちに美汐フェスあわせの原稿を書く気力を頂く。SSでも評論でもない信仰告白みたいなのになりそうなのですが。仕上がったらお持ちしますです<迷惑(汗
_ その後、せいるさんとこと同じ列のサークルさんを見て歩いてると「大空寺あゆ全台詞集」なる本が(委託で)売ってるサークルさん(CANDYFORCE)に出会う。これは先生に買うべき?とか思いつつも、サークルの方としばし歓談。
_ 台詞集はともかく……と思いつつ、他の本もと見てみるとSS本を扱ってらっしゃる様子。装丁も綺麗だし、せっかくだから買って行こうかなぁと思いつつ、財布と相談。……危なげ。
_ で、財布が危なげなんですよ〜と冗談混じりに話したら、では一番高いこの本は私からのおごりという事で、帰りに寿司でも食ってください(笑)という話に。その好意に甘えさせていただいてネタがわかる分のSS本をいただいて帰還。結局、あゆ台詞集は買わずじまい。
_ 2日目の葉鍵系はこの2サークルさんとくわね氏に頼んでた楠風館さんの澪繭本のだけだったのだけど。どれもこれも素晴らしく良い出来で。CANDYFORCEさんのdandelionを読みすすめていくうちに涙が出てきてしまったりとか。
_ このめぐり合わせに最高級の感謝を。
_ 午後、初売りの余勢の残る町に出かけてきました。
_ ドトールの2100円の福袋(コーヒー豆400gx2、ボナポット、ボナポット用茶葉x2)を買いました。5250円のでコーヒーメーカーを買っても良かったかも。豆のほうは両方引いてもらった(ペーパーフィルター3穴用に)のですが、良い感じの内に飲みきれないので、欲しい方いらしたら差し上げます。(仙台引き渡しか、日曜に東京)
_ ヨドバシは活気はあったものの殆ど福袋はなくて、DC本体があれば……とも思ったけどそれもなくて。シェンムーが新品1980円でむちゃくちゃあったのですが、これは買いなのでしょうか。(シェンムー自体はその内やるつもりという前提で)
_ 夕飯は例の分をと思い、その分奮発してロイヤルホストで鶏肉のトマト煮込み(?)みたいのを一揃い。ご馳走様でした。
_ ダイエーで牛乳とそばうどん、ヤクルト5本を買って帰り。雪は軽く積もってるけど、まだ新雪なので歩けます。むしろ明日以降が危険。
_ 朝、5時ぐらいに起きて卒論の作業とかやろうと思ってたのに起きたら6時。ちょっち慌て気味に準備して、7時前のバスで仙台駅へ。駅についたら結構空いてる。0815の最速やまびこが乗れそうになかったので、早めのに変えたんだけどなぁ。
_ 結局、0746仙台始発のはガラガラなまま東京へ。福島でも大して乗らず、E4系2階の3人席を占領して卒論書き。窓際にペットボトル、ひざの上にLibretto、隣の席と机に資料。すごく快適。2時間10kの作業スペースですか?(誤
_ 東京駅に定時着。山手線・総武緩行線で浅草橋に。会場前にて入江卿と合流。電話気付かなくてスミマセン。くわね氏も数分後に合流。入江卿から萌え文集を受け取って、会場へ。……サークル通行証、萌え。
_ 設営して色々している内に開場。せいるさんやJAGARLさんに挨拶したりされたり。日記関係の方々とは即売会会場でしか話したことないので、今度じっくり時間とって話せる機会があればいいなぁ。(NEWSという選択肢もあるか)
_ 昼過ぎに入江さん文月さんとともに喫茶店でお食事。まったりとお話し。会計持って頂いて、ご馳走様でした>入江さん
_ 戻ると既に撤退間近。と、勇者降臨、紺瀬さん。紺瀬さん「日記読んでます」入江さん「それはすいません」のやり取りに爆笑したりしつつも、意気投合して打ち上げにお誘いする。1500閉場。そこそこの売り上げでございました。感謝。荷物を取りまとめて、入江さん文月さん紺瀬さんはイベント後のお茶会に参加、私とくわね氏は秋葉原へ。
_ 会場前の道で待ち合わせていたWhiteさんと合流。途中、両国局で金銭面を整理したりFamilyMartで荷物を発送したりして徒歩で秋葉原へ。秋葉原のパセラの手前で、パセラまであと50歩という広告をハケーン。早速計りだす我ら。……スミマセンちょうどぴったり50歩で自動ドアの前でした(笑
_ 秋葉原ではぷらっとほーむにて裕氏と合流したり、にうさば2号機の見積もりを出してもらったり。SS3LE・P3-S 1.26GHz・PC133 registered ECC 1GB・Escalade6200・BarracudaATA4 80GBx2とかなんとか。ちうわけで、にうさば会員大募集中です。2号機投入によりさらに大きな事もできますので。あと、きゃらっと氏に頼まれて、C1R用の大容量バッテリパックを購入。カウンターで言うとすぐ出てくるザコン館万歳。
_ 1700から打ち上げ。参加者がすごいことになっていたり(私、くわね氏、上野さん、裕君、とくそんさん、文月さん、入江さん、紺瀬さん、then-dさん、Whiteさん)。色々と盛り上がりつつ1900に散会。
_ 秋葉原から東京駅に移動。途中「さー、行こうかー」とWhiteさんに肩を組まれたので「ロイヤル仙台店?」と返してみたりとか。1944の新幹線に予定通り乗車。
_ 新幹線内では微妙に残るアルコールから体が火照りつつも、卒論の続きを好調に作業。大方の目処がついた辺りで仙台着。さすがに行きのように空いてるという事はなかったけど、3人席窓側で、隣は空席だった。
_ 2122仙台着。駅まで迎えにきてくれたきゃらっと氏車で、途中コンビによったりして帰宅。バッテリパックやコーヒーを引き渡したり。その後、風呂入って、もちょっと作業と思ったけど、徹夜して明日締め切りを寝過ごすとかのほうがアホなので就寝。
_ 入手。
_ 元長好き的にはドラマそのものよりもライナーのほうが重要でしょうね。しかし、アレが揶揄の類いではなく、本気でジャーナリズムであるならば、その出来はそれほど評価できないものだと感じますが。どうなんでしょ。……いや、ジャーナリズムであるならそれで良いのか。ともあれ、文化人類学的なフィールドワークのみがそれを見るには肝要なのですが。
_ 集積せよ。そして、安易に帰納するな。
_ ついでに、昨日提出した卒論の最後の部分を引用しておいてみたり。
哲学はまさにあらゆる事を立言するだけであって、何事説明せず、何事も推論しない。----あらゆることが公然とそこにあるから、説明すべき事もない。なぜなら、隠れているようなものに、我々は興味を抱かないからである。
ひとはまた、およそ新発見や新発明のなされる前に可能であるものを、「哲学」と呼ぶ事ができよう。
(『探究』, I-126)
その一例として、本論文で検討した私的言語の問題がある。1で述べた感覚の語や私的言語に関する伝統的な哲学の見解に対して、感覚の語や私的言語についてウィトゲンシュタインが加えた検討はまさに「そこのどこに問題があるのか」という立場からなされたものであった。
この私的言語の問題が、ウィトゲンシュタインにとって欠くことのできない重要なものであった、とは必ずしも言いえないように思われる。感覚の語や私的言語には伝統的な誤解があったのは確かではあるが、それは言語の持つ特徴から生まれる誤解の一つの現れに過ぎない。そして、ウィトゲンシュタインの『探究』での記述は彼が生きた言語ゲームに当然制約されている点も忘れてはならない。ドイツ語・英語を用い20世紀前半の時代背景の中で生きた彼が生きた言語ゲームは、半世紀後に日本語を用いて生きる我々と全く同じとは行かないであろう。それゆえ、私的言語にせよ、規則遵守にせよ、『探究』で見出されているものはある一つの例として考えるべきであろう。
クリプキの失敗----敢えて失敗と呼ぶ----はこの「一つの例」であることを捉えそこなった所にあるのではないかと私は考える。
以下は本論文の趣旨からは完全に余談となる----ある著作を解釈する事とある著作に忠実である事は別であるから----が、最後に私が記しておきたいのは、「言語と言語が織り込まれた諸活動の総体」(7節)たる言語ゲームがある限り、「哲学者の仕事は、一定の目的に向かって、諸々の記憶を寄せ集めること」(127節)なのだというウィトゲンシュタインの主張こそ、他者理解や人間の本質が声高に語られる現在の状況において重要なのではないかということである。
_ いろいろな人から示唆や影響を受けたが、いちいち明示しない。面倒だし、誤解を与える節が微妙にあるので。トピックタイトルにある通りの順序でプレイした者としての覚え書き。
_ フロレアールの結末は私にとってはかなり納得のいくものであった。しかし、その結末はsense off - KtFと辿っていく内に、それ自身の推移としてはそれぞれ納得できる形でずらされていき、終いにはKtFの例の結末にたどり着く。例えばそれが、元長氏本人の語る「人類史全体の中での定位」なのだろう。端緒となる思考には納得できるが、それを展開していくうちに余人のついていけない領域に到達してしまった人間の例などは思想史上において枚挙に暇がない。
_ ところで、後期ウィトゲンシュタインで卒論を書いた身として明言するが、フロレアールの結末における「ウィトゲンシュタインが言った通りなんだ」は全てのフィクション----ジャン・ロタールが戦った相手----は言語ゲームであるという指摘に留まらず、その後の「大切なのは……」以下においても有効である。この件の具体的な論証については、先日述べたので再度引用する事はしない。
_ フロレアールではジャン・ロタールはフィクションとの戦闘に没頭し、後に----フィクションの内にではあるものの----目覚める。一方、sense offやKtFにおいては既に「目の前のフィクションにダイヴ」してしまっている状況からストーリーが始まる。例えばそれは、ギャルゲーのパロディーのような状況設定(sense off)であり、えろげの理想郷のような環境設定(KtF)である。そして、彼らはダイヴしてフィクションを生き、目覚めない。
_ なんとなれば、フィクションに目覚めること。すなわち「世の中の色んなフィクションを1つ1つ検討していくこと。そして、自分にとって何が意味があるのか、何がそうでないのか、それを確認していくこと。」(『フロレアール』, ED6, ジャン・ロタール)はウィトゲンシュタイン流に言えば「哲学者の仕事は、一定の目的に向かって、諸々の記憶を寄せ集めることである。」(『探究』, I-127)となり、あくまでそれは哲学者の仕事なのである。その事は確かに重要ではあるが、フィクションを生きる大部分の人々にとっては無用の事でしかない。私の立ち位置は依然として上記の意味での哲学者であり、その意味では3作の中ではジャン・ロタールにもっとも近いかもしれない。そして、この件で最も重要なのは、例えゲーム作品に対するPLという特権的・超越論的見地を手にしたとしても、それはそのフィクションとの関わり方において外的な関わりが可能であるということを保証しないという事である。
_ 疲れたので一旦あっぷして休み。
_ 再開。
_ 隠喩としてのsense offあるいは半ジャーナリズムとしてのKtFにて示された事を与件として収集し、材料として分析してしまう我々は、その限定された意味での哲学者の立ち位置にあるということができるであろう。しかし、その分析対象は元長柾木本人が以下で書いているように、今現在の我々が生きている言語ゲームなのである。
最終章【GENESIS】にしても、ただ我々の世界をそのまま丸写しにしたものに過ぎない。そこに何かしらの衝撃が感じられるとするなら、それは語られた内容によるのではなく、目に見えない現実を言語化することによって魔術的なオーラを帯びたという事----言ってみれば言霊の力によるものしかない。
何らかの結論めいたことを登場人物に語らせてはいるものの、そこにメッセージなどは存在しないし、そもそも結論ですらない。人は現実に逃避するのではなく、目の前のフィクションにダイヴしなければならない----というのは、メッセージにはなりえないだろう。なぜならそれは、ただ人が生きるということの定義なのだから。
(『元長柾木のしゃべり場』, 未来にキスを DRAMA & SOUND TRACK 所収)
_ 元長氏のこの記述を見る限り、そしてフロレアールでのメッセージ----こちらは確かにメッセージであった----が依然として有効であると仮定する限り、我々が収集・分析という哲学者の仕事をすることを否定してはいないであろう。だが、分析の対象は作品という彼岸の彼方にある存在ではなく、自身が生きるモノと同じ----厳密に同じではないにせよ地続きの----モノであるという自覚をも持てということなのか。
_ だとすると、KtFにおいて提示されたものが類型的に過ぎる----現実に展開されるフィクションはもっと複雑で巧妙だ----のは、KtFでの提示を素直に受け入れることなく自身で収集・分析を開始させるという事を狙ってやった事なのかもしれない。そしてまた、それらについて良しとも悪しとも言っていないこともまた同様に意図されてのことなのだろう。
_ ……と、我々には見えるのだ。実際に、元長柾木がどう考えていようとも、この3作の作者象と言うのは作品によって規定されているのであって彼によって規定されているのではない。これらもまたフィクションという事すらできるのであるのだが。
_ ところで、KtFに登場したケツアルコアトルは蛇と鷲の結合であり、この2者はsense offにおいて地を這う動物(旧世代的な人間)と空を舞う動物(新たなる存在)の比喩として語られている。同時に、この2者は旧約聖書に散見される象徴的動物でもあり、『ツァラトゥストラ』においてツァラトゥストラの友として語られた知と勇の象徴でもあった。
_ 更なる余談。新たなる存在が闊歩する世界においては既にフロレアールの結論「世の中の色んなフィクションを1つ1つ検討していくこと。そして、自分にとって何が意味があるのか、何がそうでないのか、それを確認していくこと。」は無意味であるように思える。KtFで提示された「新たなる存在」の生き方は独我論の罠(Solitair Trap)に繋がれる事のようであるからである。この点についての議論が私の卒論のテーマだったのであるが、それについてはまたの機会にしておく。
_ 今日も怠惰に1200起動。雨降ってるので暖かいのかと思ったら、雨のせいで朝が最高気温になりそうな勢いで気温が低下中とか。だらだらと外出を先延ばしにしていたら、外出の途中で雪に変わる罠。くぅ。
_ 休業中のバイト先から上記の事態へのヘルプ要請を受けて出社。昨日、Win98機にIE6を入れたら上記の事態に遭遇したとのこと。
_ へろへろいじっても回復しない。ふと思い立ってGoogleにwab32.dllをキーワードで突っ込んでみたら一発目のヒットが正解。「OLEXP: Error Message: MSIMN Caused an Invalid Page Fault in Module Wab32.dll (Q247706)」
_ ほかにセキュリティーパッチ周りを処置したり、常時接続環境について説明したりして、2時間ほどで退散。
_ 昨晩、4時間ほどかけて一気に読了。その筋の方々には基本な知識かもしれないけど、周辺に生息している人間にはちょうど良いくらいの記述量でお勧めできます。歴史的な逸話が色々楽しいのもあって、かなり文系よりな方もどうぞ。
_ 年末あたりから出ていたのは知っていたのだけど、まだ買ってなかった。
_ JAGARLさんが『三月は深き紅の淵を』を読んでられるのを見て、先に『三月』を読み返していたら、『三月』の「内側の4章」の第1章が「黒と茶の幻想」であることに気付く。これはさっさと買わなくては、と年末に見かけたジュンクに行くが品切れ。amazonとかで取っても良いのだけど、それもこの本に限っては興ざめなのでってんで、今日もう1軒大きな書店にまわってみたら有ったので入手。
_ ちなみに『三月』の「外側の4章」の第4章に出てくる学園モノ風味のテキストは『麦の海に沈む果実』に似ているけど、そのままではなかったりして、この辺すごく面白い。この3作はハードカバーで欲しくなる本、持っている内で『三月』だけ文庫版なので買い換えようとか企んでいたり。
_
恩田陸「黒と茶の幻想」【 amazon / bk1 】
恩田陸「三月は深き紅の淵を」【 amazon / bk1 】
恩田陸「麦の海に沈む果実」【 amazon / bk1 】
_ 更なる多重化。
_ 基本的な構成は『三月』内側の第1章と同様で、島を旅する4人の男女が「美しい謎」について安楽椅子探偵よろしく議論をしていくというもの。その一つ一つが微妙に絡まりあって、作品全体の底に流れる一つの大きな過去についての謎を形成していくというのが作品単体での見所と思われる。ハードカバーで600Pにも及ぶ本だけど5〜6時間ぐらいかけて一気に読んでしまった。
_ んで、『三月』との絡みの話ですが、『三月』外側の1章で語られたように謎は提示されているだけなのではなく、基本的に解決もいちいち与えられています。もっともそれゆえにこそ「有名なミステリ作家の再構成」があるとか書かれていた『三月』外側の1章とも呼応してしまうようにも思えるのですが。
_ 登場人物には一部『麦の海』の登場人物が再登場、またも劇中劇で『麦の海』によく似た話が語られたりとか。そういえば、『三月』内側の第3章「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」にも『麦の海』の別の人物が登場していたなぁ。
_ 恩田陸は書ける作品の幅が余りにも広いので、その作品が恋愛モノなのかミステリなのか学園モノなのか……で、読者の趣味と合致すれば名作と誉められるし、他の作品の余韻で期待して他の作品を読むと趣味に合わなくて勘違いめいた評価を下されれるという面があると思います。恋愛モノもミステリも学園モノも好きという無節操な私は『ライオンハート』でも『MAZE』でも『六番目の小夜子』でも楽しんで読めますが、普通はそうはいかないもので。
_ などという事をGENさんの記述やshakaさんの記述を見て思った。
_ そして、もしJAGARLさんが『麦の海』に「「赤い本の話」が持つ禍々しさ」を巡る話を求めておられるのであれば、もしかしたらちょっと期待はずれな結果に終わるかも知れず。あの物語はあくまでも学園モノで、学園という偽装され不自然な平常に現れた異分子たる転校生を巡る物語のように思えるので。そういうところは『六番目の小夜子』に近いと思う。
_ 高橋さんとWhiteさんの議論は、種を撒いたのが私であるにも関わらず静観していたのですが、すべきフォロー程度はしておくべきかと思ってちょっとだけ。
_ 高橋さんの1/18の記述。ソープオペラに関しては、英国で放映されていた「クロスローズ」の研究をはじめとして、それなりの研究の蓄積がありますし参考書として示せる文献も出回っています。それゆえ、例え読者がソープオペラ----ありていに言えば昼ドラ----の熱心な視聴者ではなくとも理解させる事は可能でしょう(むしろ、熱心な視聴者では見えないことがここでは重要でもある)。そして、だからこそ我々は「君遠は所詮ソープオペラ」などと切って捨てるある種のパフォーマンスを演ずる事ができるのだと思います。
_ 句読点抜かしているとかそういう話は論外なのでともかくとして。
_ 東氏を弁護するならば、彼の文章は明らかに我々に向かって書かれたものではない----少なくとも我々の流儀に従って書かれたものではない----ということは配慮されるべきであろうと思います。我々----ゲームを日記上で批評する人々----にとってはネタバレは配慮すべき問題ですし、読者が既にそのゲームのプレイ経験があることも期待していい事項です。しかし、例えば私が大学の研究室仲間にKtFやsense offの話をする場合であれば、ネタバレなぞは気にせずにゲームを「要約」して提示することは肝要ですし、彼らに対してプレイした事のある人間同士として議論を吹っかける事も出来ません。その限りでは、あの範囲の引用は正当な引用だと思います。私が大学でKtFについて触れようと思うなら、あの程度の引用は最低限やるでしょう。
_ ところで、東氏と元長氏の問題意識については#gamedeepにて軽く述べたのでここではポインタのみ。
_ ソープオペラ(SoapOpera)の語源は石鹸(Soap)メーカーが提供しているからです。石鹸を買うような人間が見ている時間帯&内容という事。そんなわけで「花王愛の劇場」なんてのは日本におけるソープオペラの典型ですな。
_ さて、上で述べた「クロスローズ」の研究ってのは具体的には Drothy Hobson, "Crossroads : The Drama of Soap Opera", 1982 の事。これは正確にはソープオペラの研究が中心ではなくてソープオペラの視聴者の研究だったりして、むしろこの視聴者(消費者)の研究という観点からこれ以後発展していくことになります。作品そのものについてよりも作品の受け止められる仕方に興味のある私としては、君遠に限らずギャルゲー一般の受け止められ方について考える際に研究の潮流----オーディエンス研究と呼ばれる----は示唆的なのではないかと思っています。
_ それで、前項の記述はターナー『カルチュラルスタディーズ入門』の4章「オーディエンス」に拠っているので適当に参照のこと。
_ なにやら名前まで出して頂いて、恐縮してみたり。今後ともがんばってください&よろしくお願いします。
_ 未明、IRCの某チャンネルにて、東氏の例の文章をめぐって、なにやらとりとめもないことを影王さん相手につらつらと述べ立てる。どうも最近は影王さん相手に話してるときが一番やりやすい気も。最近じゃ、話していても喧嘩別れにならないしね。大人になったなぁ(誤。
_ その話をする前にGENESISを再読していたのだけど、そこで結構強く感じたのは東氏自身は元長氏の日記での記述を読んでないだろうし、ドラマ&サントラのライナーも読んでないと思われるという事。そして、問題となっている先日の東氏の記述の第3セクション(「あと少しだけ筆を滑らせよう……」以下)のような信仰告白をする人間には確かにKtFはあのように読めると思われる。
_ 私にとっては、彼のKtF評よりも第3パラグラフの信仰告白のほうがより説得力をもって迫ってくる。
しかし思えば、その『存在論的』よりさらに以前、デリダはおろか、まだ柄谷行人や浅田彰の名前すら知らなかった高校生のころ、私もまた、「私とあなたのコミュニケーションという小さな物語」ばかりを突き詰めて考えていたのだった。恋愛対象を探すのすら難しい男子校の教室の片隅で、私はただ、「私」はあなたを愛することができるか、私はあなたに「愛」を伝えることができるのか、そもそも「あなた」の唯一性とは何なのか、そんなことばかり抽象的に考えていたような気がする。思えばアブない高校生だが、哲学者なんて志すのはそういうヤツに決まっている。
_ この段落なぞ、ほとんどそのまま私に当てはまるといってよいだろう。哲学やってる連中の75%はこんな感じの高校時代を過去に持っているものだ。そして、このような問題意識から出発した人間がKtFをプレイした時にあのような感慨を持ったとするならば、それはひどく納得できるものだ。他我問題だとか私的言語の議論だとか、ここに載せている過去に出したレポートの類を眺めてみればすぐに判ると思うが、私もまたコミュニケーションの問題にひどく拘泥してきた。
_ ついでに言うと、高校時代、思い込みによって間違った住所に恋文を送り、宛先に心当たりませんで自分の家のポストに当の恋文が届いた誰かさんの事例----結果としてその恋文は正しい場所に配達されたのだ----などは、まったくそのままに東氏のKtF評の実例として使えてしまう気もするのだが、それはとりあえず気付かなかった事にしておこうか。
_ 最近のキーワードになってしまった「フィクション」について。私としては元長氏の3作に共通するキーワードは「フィクション」だと思ってる。
貨幣経済や民主主義や自然科学やカトリシズム(フロレアール)
未来を見てしまう事、過去に規定される事(sense off)
自動化したシステムに支配される事(KtF)
_ 人が本来自らの便益のために作ったのに、自動化して人の概念図式をも支配してしてしまっているもの。その支配の元に安住する事で人は今までひとは人間でいられたのだが、「神はいない」「法は恣意的だ」などとしてフィクション(虚構)である事をばらされてしまったもの。共同幻想といってもそんなにずれないとは思うけど、ここではむしろ安住し信頼してきたものが虚構だとばれるという側面が重要なので、「フィクション」。
_ KtFでは、フィクションを象徴するものとして岡崎さんの存在がある。岡崎さんじゃないと起きられない。康介も岡崎さんを使わないと起こせない。そういう意味で康介も霞も岡崎さんというフィクションに支配されている。そして、それはなんとなく「起きる」という単一の事象にたいするものではなくて、霞とお兄ちゃんの関係そのもののフィクションを岡崎さんは象徴しているように見える(この指摘、影王さん)。他にも、いちゃいちゃごろごろして首輪つけてセクースしないと、二人の関係を保証できないと考えてしまうのもフィクションと思われる。
_ このようなフィクションによる人間支配----KtFでは端的に「人でないものに支配されてしまっている」と表現されている----との対峙。この対峙の仕方には色々あって、KtFのGENESIS以外の4シナリオでヒロイン(?)達がそれぞれに語り、示している。その支配に徹底的に乗っかる事(霞)、無意味な単語の羅列として受け流す事(式子)、支配を嫌いそこから脱しようとする事(椎奈)、支配せず支配されない事(悠歌)。
_ 言うまでもなく最近の私の議論はKtFそのものを単純に論じているのではない。私がしているのは評論であって考察ではない。そのような「考察」を拒否するというのがKtFであろう。そういう意味では影王さんのこの文章の結論や、Whiteさんが「見も蓋もないエロゲー」と形容するニュアンス、あるいは2.14さんが死エロBBSの書き込みで「センス・ゼロ」と言った事などに、私も同意するのである。結局の所、私がしているのは、哲学に一旦別れを告げるに当たっての後始末のようなもので、卒論では書きこのしてしまった部分----サブカル研究的なものは当然書けないわけで----を補充しているに過ぎない。
_ さて、ちと長いけど、影王さんの文章から中盤あたりをまず引用。
書いていて違和感を感じた。共同幻想とフィクションとは異なる。フィクションは一人でも創造する事ができる。が、共同幻想はできない。一人だけの共同幻想は語の矛盾であり、それはただの幻想であって“共同”ではない。当たり前だが。
例えばKtFでは“首輪”は双方にとっての共同幻想である。一方、“岡崎さん”は霞の「お兄ちゃんに甘える自分」というフィクションの具現であり、しかし同時に康介にとっては霞との共同幻想を象徴する。要するにここのズレが霞を“挫折”させたのではないか。
この辺まだ理解が曖昧だが、そうすると上の元長氏の言葉は共同幻想とフィクションがごっちゃになっているような気もする。「新たなる存在」の創ったフィクションは個人の域を出ない。そこにはやはり身体性というものが決定的に欠けている。そして、それに呪いのように脳はついてまわる
_ 影王さんも書いてるけど、私が論ずる場合の「フィクション」で特徴的な側面は「支配」であると思われる。カトリシズムの教義でも法のシステムでも、それらは本来支配する「人」(これは専制君主でも良いし、主権者たる国民全体でも良い)が支配のための道具として作り出したものであったのに、いつのまにか支配しているのはフィクションそのものになってしまって、作り出した側すらもフィクションに支配されるようになってしまう。それゆえ、新たなる存在がそのような「人でないものからの支配」から無縁であるとすれば、彼らの作り出すものを「フィクション」と同様に呼ぶのには、微妙に違和感が残る。無論、彼らも結局は「人でないものの支配」から脱却できないのかもしれないのだが。
_ 首輪の例で言えば、霞は首輪を用いて康介に支配される。しかし一方、霞に首輪を着ける事を康介に強要する事によって、逆説的に霞は康介を支配するのである。だが、いつのまにか首輪という道具がフィクションとして機能しだすことになってしまう、霞も康介も首輪に支配されるようになる。(弁証法?)
_ この話が過熱しだす前まで----GENESISを再読するまで----は私は(霞シナリオでの)霞こそ「新たなる存在」かと思っていた。しかし、先日書いたように霞はフィクションに乗っかる事によって安住を得るタイプの、きわめて古典的な人間であったと言える。霞シナリオの最後、康介は霞に首輪のかわりにとケツアルコアトルの指輪を贈る。この指輪が何を隠喩するのか、あるいは何をも隠喩しないのか。その結論はCDドラマで示されているような気がするが、この件はひとまず脇に置く事にしよう。
_ GENESISにおいて、霞は岡崎さんというフィクションから脱却しようとし、自らに自らを支配する権利を取り戻そうとする。これは「誰かを支配するには道具が必要である」「しかし、道具はいつのまにか支配の主体性を本来の人から奪い、フィクションと化す」「それゆえ、人が人を支配する事は出来ない」という構造から脱却しようとする試みである。
_ しかし、これも早々に挫折する。他人を支配できるだけの力を持つことが出来ないと霞は訴える。そこに悠歌が現れ、他人を支配/把握するなんて望まなくても良い。それは不可能なのだ。という主張を提示するのだが、以下次回。……連載だったのか。
_ 日記関連のシステムを整理した。
_ CFFとSSLの双方のトップに書いてある「日記最終更新」は今まで手作業で書き直しアップしていたのだが、それをSSIにて実現するのが第一。その為に.htaccessでXBitHack fullにしてやり、Last-Modifiedが取れるようにchmod 754してやる。
<Files "index.html">
XBitHack full
</Files>
_ その上で、SSIを使わないindex.htmlがある下位ディレクトリにはXbitHack offにする.htaccessをおいた。
_ それだけでは今までトップページにHEADリクエストを出していた人には異なる動作をするように見えてしまうので、日記スクリプトにSSIなindex.htmlにtouchするだけのスクリプトを組み込み。
_ 多少なりとも手間が減ったかもしれない。見ている側には全く影響なしというのも実現できたし。
_ を巡っては、Whiteさんらと例によってIRCであてどなく議論中なのですが。以下、ポインタを明示するのは面倒なので割愛。
_ さて、「DB消費」において実際にDBを○○用語辞典などの形で実装する事(例)は、DB消費そのものの例としてはあまり適切ではないと思われる。作品の供給・消費の現場において、DB化した要素への志向があるということがDB消費のもっとも重要な側面で、用語辞典などで実際にそのDB要素を積み上げる事はその上で成立するメタ的・パロディ的作業であると思われるからである。
_ 前掲した例(EVA用語辞典)に関わっていた当時の私はむしろそれら要素の集積によって作品の背後に横たわる「大きな物語」へのアプローチを試みていた。用語辞典などでDB消費全体を展望する事はその「見通しを良くしたい」という願望の一点において、要素へのひたすらな志向を特徴とするDB消費そのものとは一線を画するものであるだろう。
_ 細かい所だけど。
_ この本文は物語構造(ファンタジー特化)萌えな人が存在する以上、おっけいだと思うのですが、この注釈はちと議論の余地が残るかもしれない。
_ DB型での作品の供給・消費の場合、小さな物語(=成立している作品)やキャラクターは概念DBから取り出された要素のサンプリングとして成立している。それら取り出された要素を秩序付ける----起承転結の中に並べる、キャラクターとして整合性を持って成立させる----段階において、この枠組みもまたDBから取り出された一つの要素であるのは確かであろう。
_ 諸要素を統合する枠組みとして機能する要素(以下、枠組み要素)には、例えばWhiteさんの上げてるような物語の類型が典型だが、獣娘(うさ耳娘/猫耳娘etcに枠組みを提供している)なども枠組み要素として機能していると言いえるだろう。
_ この枠組み要素のおかげで、支離滅裂に集められたかに見える諸要素はそれなりの秩序を持って小さな物語やキャラクターとなる事ができる。ただし、この秩序は決して諸要素が取り出された元の概念DBには還元されえない。このあたりに、色々誤解の種が詰まっているような気がする。
_ 例えば、KtFスタッフロール2での以下の節を頼りに、KtF=「動物化するポストモダン」という論を立てるとするならば、この枠組み要素の問題に突き当たると思われる。
俺たちは今、現実と歴史が混じりあう場所に立っている。
未来へのスタートラインに立っている。
この先は、論理も何もない世界だ。
文脈も物語もない。
あるのはただ、ばらばらで、互いに関連付けられていない、
存在しないものだけ。
_ 端的にこの節に見られるようにKtFでは枠組み要素の存在すら捨象してしまっているように見える。しかし、「動物化するポストモダン」の領域ではそこまで踏み込んではいないように思われる。もっとも、Whiteさんが書いているように概念DBと実体DBとか、東氏自身もこの辺の事を曖昧にしかつかんでいないように思われるのだが。
_ 東氏の先日のwebでの信仰告白めいた記述と元長作品で示唆されている問題意識は、それなりに呼応するものではあるかと思われる。しかし、東氏が
この文章は、もし私がもう少し怖いもの知らずだったとしたら(笑)、『動物化するポストモダン』の末尾に書き記していたとしても決して不自然ではない。それくらい言葉使いが似ている。だから私は、このエンディングロールを眺めて、嬉しいような気恥ずかしいような、少し奇妙な経験を味わった。
_ と1/19の近況で書いたのは、その外見的な「言葉遣いが似ている」という事に浮かれているだけで実際には無視できない程度には差があることを忘れているということでしかない。自分自身の主張にもあらがある上に、元長作品を通覧したわけでもないのだから、当然といえば当然なのだが。
IRC某チャンネルにて
14:29:52 *** Ryu_s_Zzz has joined channel #****
14:29:52 *** Topic for #**** : <ynkt_home> ぱんちゅで萌えないわけがない。
02:26:16 <Ryu_sndi> 今日の誤読大賞
02:26:36 <Ryu_sndi> >岩城由奈の「えがおのはつでんしょ」は至極オーソドックスな内容。
02:26:41 <Ryu_sndi> えがおのぱんつでしょ
02:26:44 <Ryu_sndi> (死
02:27:15 <kuwane> ぱんちゅで萌えないわけはないそうですから。
02:27:23 <kuwane> 全然大丈夫だYO!
02:27:28 <Ryu_sndi> そうか!
02:28:47 <kuwane> (一瞬えがおのはつでんしょって、原発推進ソング?とか思ったのは秘密だ)
_ 昨今話題のゲーム性とかゲームの面白さとか、色々。
_ Whiteさんがどっかで言っていたように、ゲームで重要なのは「如意と不如意」だと思う。無論、作品/商品としてのゲームはいかようにも消費出来ようけど、ゲーム性やゲームとしての面白さを問われるならばこの「如意と不如意」こそが少なくとも私にとっては重要だ。
_ そして、私にとってはこの「如意と不如意」はレースゲームを徹底的にやりこむ中に現れる。コース上に他の車がいない状況でわざわざ簡単なコースを使って単純にタイムだけを求める。これは傍から見ると単なる自己鍛錬に過ぎないのは確かで、そこには制圧すべき目標としての自分の肉体があるだけで、駆け引きも偶然の面白さもないではないか。そう見える。
_ だが、それは違うと主張しよう。このようなプレイスタイルのレースゲームでも、優れて「如意と不如意」の交錯する「ゲーム」なのだ。そして、それが面白い。
_ さて、敵のいないレースゲームでタイムを競うという事は、最終的にコース上でのライン取りと速度配分に集約される。そして、与えられた条件(コース設計/車の性能/ゲームのルールetc)から最適なライン取りと速度配分が求められたならば、後はそれを実現するための肉体の鍛錬である。かくしてレースゲームは如何にロボットになれるかに帰着する。
_ ……わけではない。まず第一に最適解を求める事が難しい、というよりも終わらないのである。競うのは最適解の正確さではなくて実際に走ったときのタイムであるから、自分が正確に運転する腕をどれだけ持っているかによって、最適解は変わってくるのである。より成功率が高く失敗しても復帰しやすいライン取りが求められる腕の人もいれば、難度は高くてもタイムを稼げるライン取りを選べる腕の人もいる。繰り返しプレイする内に腕そのものは徐々に上がっていくから、それに合わせてライン取りも変化させていかなければならない。そんなわけでそこには駆け引き的な面白さがあるのだ。
_ 運転する技術が発展途上にある限り、そこには「如意と不如意」が介在し、その不如意さえも見越す駆け引きが求められる。ついでに言うと、RaveRacerはどうも過去のベストラップによって最高速度とかをいじっているようにも思われる。走りこんでない台では同じ走りをしたつもりでもタイムが伸びなかったりするのだ。そんなわけで、技術が完璧になっても条件が変わるのでゲームは終わらない。
_ そして、新しいライン取り/速度配分を見出していく事の中にも「如意と不如意」が交錯する。レースゲームの場合、実際に走ってみない事にはそれが最適解であるか解からない。それどころか、多くの場合最適解はミスの中から発見される。アクセルを踏むのが一瞬遅れたとかステアの操作を間違えたとか、大抵はタイムのロスに繋がるのだけど、ごく稀に未知の今までのより速い解を発見する事がある。不如意な所の中に更なる発見があるわけで、もし技術が完璧だったとしたら気付かないかもしれない発見なのだ。
_ この辺の所が私にはすごく面白いし、優れてゲーム的だと思う。そして、「アクセル踏みっぱなしでもあのヘアピンを曲がれるライン取りは有るようだけど、まず操作しきれないから止めとけ」とかそういう議論をするのもまた楽しみの一つである。
_ とか、いろいろ考えてみたのだけど、これ「レースゲームのゲーム性」というよりは「スポーツのゲーム性」って感じかも。レースゲームのモチーフはもちろんモータースポーツなわけで、それは当然の帰結ではあるのだけど
_ 昼、ロイホの10%引き券(1/31まで)が後1枚残っていたんで、きゃらっと氏を誘って一番丁店に。ランチセットとイチゴパフェ。かなーり満腹。
_ その後、ゲーセンを2つ梯子。BeatManiaで温故知新してみたり、斑鳩やってみたり。
_ んで、例によってRaveRacer。
_ 1周目51.1secだったので、それなりかなぁと思って2週目を回ると50.866sec。久しぶりの50.8台。その後も7週目ぐらいまでコンスタントに50秒台に入りつつ、ノーミス進行。これだけラップタイムが上がってる中でのノーミス進行は本当に久しぶりなので緊張して心拍数が上がってみたり。
_ 8週目辺りから、トータルタイムの更新(自己ベスト10min12.783sec)を狙いに少々安全よりの走りをしたためラップが51.1sec付近にまで落ちるも、なんとかノーミスのまま完走。10min12.202sec、一気に0.5sec以上縮めてベストを更新、2年以上ぶりにRYUを打ち込む。
_ 次の課題は平均ラップを50sec台にのせて、トータルを10min12sec割れさせる事だけど、何時になるやら。
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