_ 私は批評屋であるからして、為せる仕事はすべて過去を、起こったことを、それをのみ材料として為されねばならぬ。それを材料として、正当だと定められた手段をのみ用いて、そうして何かを評価するのだ。
_ それ故、私は未来に起こることを作り出すことはできない。未来を予見することすら確率に頼ることしかできない。与件を評価することについては、その評価が未来に向けたものであっても可能ではあるが、しかし与えられたのは全ての事態ではない。
_ 引き起こされ、私に向かってくる事態について、評価を下し既存の認識を再編成する早さ正確さにおいて、負けない自信はある。先手を打ってくる相手に対し、食らいつき状況を再分析する。少なくとも既に起きた、与えられた事態についての評価では負けない。
_ 私はあなたと共に創ることは出来ない。しかし常にあなたの側にあり、あなたを理解し、あなたに有用な分析と評価を助言という形で与えることができるだろう。
_ IEだけかも知れんけど、スペースバーというのもあります。ちなみに、私が多用するのは「右クリック-ほんの軽く右にマウス移動-左クリック」(これまたIEだけ)ですね。
_ パトレイバーじゃなくても良い。そんな評価も漏れ聞こえてくる作品である。特車2課は出てくる、でも主役じゃない。レイバーは出てくる、でも主役じゃない。ひろみちゃんなんて台詞もない。WX3の主役は今までのパトレイバーシリーズに出てきた誰でもない。これならパトレイバーじゃなくても良いじゃん。素直に刑事ドラマやれよ。
_ しかし、これはやはりパトレイバーなのだ。
_ この作品で主役たちを中心にして描かれた一つの状況。それをこれだけ見事に描き出すためには「パトレイバー」、特に「劇場版パトレイバー」という文脈の中でのみ可能であったといえる。パトレイバーの一作品として、その広大な背景の蓄積の下に描かれる事で、WX3はこれだけのものとなったと言える。
_ WX3の中で描かれる事は恐ろしく単純である。大きな事態が展開しているにも関わらず、その視点は徹底的に数人の限られた人間の視界の内に留まりつづける。それでいて、観客がその大きな事態の大きさを実感することができるとしたら、それは劇場版の前2作を想起させるシーンが繰り返される事によっている。すなわち、数人の視界に留まりつづける事を可能にしたのは、観客が他の多くの情報をパトレイバーという背景から取り出す事が期待できたからである。
_ 大きなシステムの中で、神になる人間とシステムの破綻に立ち向かう人間。大きな事態といいながら、その脇では依然として日常が展開しつづける矛盾。或いは、自衛隊という名の隠された軍隊。などといった前2作での主題をも背景として奉仕させながら、WX3の描写はひたすら個人的なレベルに終始する。そして、その個人的なレベルでの人の無力さや愚かさもまた前2作との関連を感じさせるものである。
_ パトレイバーという背景なしでは、このような作品の成立は不可能であった。WX3はパトレイバーである故にその内容を高める事が出来たのであったし、また、モチーフそのものも劇場版前2作を中心とするパトレイバーの流れを踏襲したものであったと言えようと思う。
_ 2値論理(=命題論理だっけ?)や述語論理は集合論に包摂される。というのはありそうな話である。が、この辺の分野は情報屋か数学屋か哲学屋か、誰が専門にすべき領域なのか明らかでないね。そんなわけでいまいち私もよく解からない。
_ 思いつくままにツッコミ、或いは布教。
_ 回答
_ 比喩的用法を除くとすれば、ここでのAとBは常に置換できるものでない事は容易に知られるであろう。「Aさんはあの本を理解している」はまっとうな文章だが、「あの本はAさんを理解している」はそのままでは(文脈的背景抜きでは)まっとうな文章ではない。すなわち、主語として「〜は理解している」の「〜」に入りうる語(群)と、目的語として「〜を理解している」の「〜」に入りうる語(群)とは一致しない。
_ さて、この場合の可能的主語集団は可能的目的語集団であるが、逆は真ではない。という直感がある。この直感が正しいとすると、可能的主語集団は「何か」との結びつきがあるに可能的目的語集団の中から際立っていると仮定できよう。その「何か」を意識とか主体性とか内心とか理性とか、何とするかはとりあえず関係ないが、試みに理性と呼ぶ事にする。
_ では、可能的主語集団は理性との結びつきを持つが故に「〜は理解している」の主語になりうるのか。すなわち、「理解している」の場合では可能的目的語は名詞の殆どを含みうるであろうから、「〜は〜を理解している」がまっとうな文章として成立するためには、その主語が理性との結びつきを持っているかどうかにかかっている。
_ Whiteさんが立てた問いに対して、以上のような回答があったとしよう。結構エレガントな回答である。だがしかし、依然としてツッコミ所は残っている。
_ 例えば、理性との結びつきがあるから「理解している」の主語になれるのではなく、そもそも「理解している」の主語に入れるようなものを「理性との結びつきがある」としてみなすのではないか……等々。
_ しかし、回答例の内側の齟齬を探す以前に、問いそのものの不透明さを指摘しておくべきであろう。「AはBを理解しているとはどういうことか。」と設問者は問う。しかし、「どういうことか」と問われても我々はどう答えていいのか困ってしまう。ある人が「AはBを理解している」と主張した際に、その主張が真であるか偽であるかはどこで定まるのかを聞いているのか、あるいはその主張が文脈の中で唐突なものでなく意義ある主張であるかを聞いているのか。はたまた、「AはBを理解している」という事態の真偽条件を聞いているのか、あるいはその事態の成立条件を聞いているのか。
_ ここで明らかになるのは、主張(Whiteさんの言を借りれば主観)と事態(同、客観)のいずれに注目するかという対立軸であり、更にそれぞれの軸の中で、主張の場合には真偽条件か妥当条件か、事態の場合には真偽条件か成立条件かの対立軸が存在するという事である。
_ このような諸々の議論の軸の中で、私は主張の妥当条件という事に着目する一派に則して哲学屋としての考えを進めていたのであるが、例えばその限定された中においても、妥当性を決する周辺状況や文脈は、事態論者の言う客観とか事実とかとは異なるのか等々、諸々の問題が山積しているのである。そして、このような場面にまで遡って行く中で、当初は単なる例文であった「AはBを理解している」の実質が見えてくるというのも興味深いといえよう。
_ いつまで遡っても問いばかりで殆ど回答を与えない文章になってしまったが、学問としての哲学の第一の目標はいわゆる哲学的な問いにしろ、もっと日常の問いにしろ、その問いを明確化し問いの本質を見極めていく所に一つの要があると思われ、このような文章ばかりになるのも仕方がないと思われる。
_ ええと。「包摂」というのは「集合論があれば命題論理も述語論理も要らない」という感じの意味です。
_ 「記述できる」というのが「要らない」のレベルまでに達するかどうかが問題なのか。
_ 無限話。無限については色々と聞いたし、それに基づいて考えたのだけど、今となっては殆ど忘却の彼方……とか言っていると某先生に怒られそうですけど。
_ 無限といわれて、すぐに思い出すのは、ウィトゲンシュタインの
_ や、カントの
_ 諸事情あって複数の金融機関に口座を作る。開設時の預入金額は全て5000円。
_ 郵政事業庁仙台中央局。ぱるる。オプションの勧誘なし。粗品なし。
_ 東京三菱銀行仙台支店。スーパーパック(段階金利型。2年目以降は残高10万円以下の場合は要管理手数料)。オプションの勧誘説明は比較的丁寧。パンフレットを2部。粗品はポケットティッシュ。
_ UFJ銀行仙台支店。オールワン学生プラン(段階金利型。学生の間は管理手数料なし、その後は10万円以下で要)。オプションの勧誘説明が多少強引。規約集・パンフレットを4部。粗品はボックスティッシュ。
_ みずほ銀行仙台支店。総合口座。オプション有無の確認程度。規約集を1部。粗品はハンドタオルとマグカップ。
_ きゃらっと氏に誘われて米沢と板谷峠に小旅行。テーマは「ひたすら山道を走る」
_ 仙台 〜 国道48号(仙台西道路)-県道31号-国道286号-国道457号-県道51号-国道113号 〜二井宿峠 〜 国道113号 〜 道の駅たかはた 〜 国道113号-国道399号-県道1号-県道101号 〜 米沢 〜 国道13号-県道376号 〜 水窪ダム 〜 県道232号 〜 板谷峠 〜 県道232号 〜 峠駅 〜 県道232号-国道13号-福島飯坂IC-東北道-仙台宮城IC-国道48号(仙台西道路) 〜 仙台
_ と、書いてもわかりにくいので。仙台から釜房ダムまで行き、蔵王の東側を南下しながら遠刈田を通って七ヶ宿まで。七ヶ宿から二井宿峠を越えて山形県に。峠を降りてすぐにある道の駅たかはたで休憩した後、そこで教えてもらったルートで米沢駅前。駅前で米沢牛など食った後、腹ごなしに上杉神社まで散歩。駅前に戻ってとりあえずR13で福島方面へ。途中、目的のルートを微妙に間違えた事に気付き、水窪ダムを経由して板谷街道(県道232号)。恐ろしき悪路(舗装は崩壊中で山道同然。車がすれ違う余地なし。実は冬季閉鎖中だった説もあり。大型車は通年通行禁止)を制圧して板谷峠にたどり着く。そこから多少はマシな道を通って峠駅へ寄り道。再び板谷街道を下って、板谷駅を横目に見つつR13に復帰。東栗子トンネルなどを抜け、一気に福島盆地まで駆け下りる。福島飯坂ICの手前で少々休憩した後、東北道で一気に仙台まで帰る。260km程度。
_ 釜房辺りから二井宿までの道はどれも2車線ある安全な山道でスピードも結構出せますんで、ふつーにお勧め。蔵王とかも綺麗でした。二井宿峠を越えると一気に置賜盆地に下りるのですが、そこも景色が良く月山連峰などまで見通せたり。
_ 高畠から米沢の辺りはアップダウンも少なく、米沢駅前には無料の駐車場もないので(上杉神社のは無料だけど)、道の駅で自転車など借りると良いかも。高畠から米沢までは12kmなのでレンタサイクルのママチャリでも問題ないでしょう。
_ 板谷街道の水窪ダム〜板谷峠は正直お勧めできません。明治13年に栗子峠を抜ける栗子トンネルなど(R13の旧ルート)が出来たため、その後は最低限の整備しか為されなかったのでしょう。積雪がない時期の日中、取り回しの効く山道に向いた車でなら十分ですが、板谷駅や峠駅に向かうならば米沢方面からでもR13で西栗子トンネルを経由すべきでしょう。
_ 峠駅。碓氷峠の横川駅などと並び称されたかつての面影は最早なく、そこにあったのは駅の墓場だった。ホームとホームの間の路盤に廃土や間伐材が打ち捨てられた旧ホームを横目に見ながら、一部にレールや転轍機が残されたスノーシェッドを歩いていくと、現峠駅……とは名ばかりのホームがある。折りよく、踏切の警報が鳴り始めスノーシェッドの奥、板谷トンネルから400系が走り出てくる。通過駅ということで警笛を1回鳴らして走り去っていったが、それも失われた過去に捧げる弔銃のようであった。
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