_ などと書いてみたところで、全てにおいて進歩がない私。\
_ 今日から俺は暗黒名雪萌えになりましょう。
_ チュニジア戦も観戦する必要があるな……。そういえば、小野や稲本、中田浩二や小笠原って同い年(79年)だ。そんな事を思い出しながら「小野とW杯と最高に可愛かったあの娘とダメ男だった僕」(SOCCER UG TEXT)とか読むわけだ。
_ 永遠の世界とか神とか自由意志とかいろいろ。ONEっぽくもあり(微妙にOVA)、sense offっぽくもあり、ニトロあたりのシナリオのようでもある。要するに嫌いじゃないってことで、翻訳SFの独特さに抵抗感がなければ薦める。
_ それに関して言えば、他者or物語への感情の移入or理解というのは本人がその感情を放擲しているために不可能になったりするものではないでしょう。放擲するという決意は単に可能性のひとつを潰しただけで、元からその可能性すらなかったわけではないのですから。
_ まぁ、それはともかく。
_ これですが、まったく同意。はじるすはもとより、各種いたる絵でも使用可能にして使用済み。訓練されてますから。「幼馴染の(中略)ごろごろするだけのゲーム」なんかも、繰り返し使用させていただきました。ごちそうさま。
_ というか、とらハを使用しないなんてそんな罰当たりな野郎がいるとは驚きです。Keyならともかく、Ivolyは周辺の展開や他製品からして明らかにそういう使用を想定してるじゃん。
_ まぁ、言語ゲームにおける意味はその使用によって定まるのであって、意味が使用を定めるのではないのだが。
_ いまさら作品なんて存在しないの。あるのは商品ないしは製品だけよ。
_ ところで某「絶望」のタイトルの由来は使用可能シーンにたどりつくまでの絶望的な作業量だと思われるのだが如何。
_ 自らの自由な意思に従って何かに向かって進む人が好きだ。好きだというのはあまり妥当な表現ではないかもしれない。つまり尊敬するということだ。
_ ほんの些細なことであっても、その目標がその人の自由な意思の発露として設定された限りにおいて、その目標と目標への歩みは崇高なものとなる。それはその人の未来を作り上げていく過程である。そして、その過程においてその人の人格が発露する。人格そのものに対する好悪はあろう。しかし、光り輝くその発露はわたしの感覚を魅了する。
_ そこにたどり着いてしまった人についてはどう思うのだろう。少なくとも、それまでの過程における彼の人については当然尊敬の対象となる。でも、そこで人生が終わるわけではない。皆が皆ラインハルトや観鈴のような道をたどるのではない。人の生は続く。
_ 歩みを止めた人、もはや歩む必要のない人。あるいはそんな人は存在しないのかもしれない。創業は易く、守成は難し。手にした目標を把持し続けること。むしろここにこそ不断の努力が必要なのではないか。それはもはや光り輝くようなものとして他者の目には映らない。ただ、それを把持し続けているという事実のみが、その努力を語るのか。
_ 光り輝く創業の眩さに目を捕られていたのは誰か。あなたは何を感じ、何を考えなかったのか。
_ TWO-MIXの「7th Anniversary Best」を聞いている。手元のCDはどれも妙に主張が強くて、何かしながら、特に何か読みながらBGMにするには強すぎる。その点、このベストアルバムはどこまで聞いてもひとつのイメージの反復の中で差異化がなされているから、安心して聞ける。ひとつの曲を延々と聴いた場合のような妙な残共感のないままに、しかしある程度の統一性は確保されるという意味でこれは重要である。
_ というのは誉め言葉なのかどうか。
_ ところで、数学は暗記であるというのには一部の方面からは反発を得ているようである。しかし、哲学は暗記であると言い換えてみると、そこにはやはり反発が起きそうでありつつ、しかし私にはそれもまた一つの事実であるように思える。
_ この場合の哲学は(数学と同様に)学として確立され制度化されている西洋哲学の系譜におけるそれであるが、そうである限りそこにはある種の暗記的要素が含まれていると言って良いだろう。
_ 問題のパターンを見出して、そこに暗記した解法を放り込むという数学暗記説は、問題の設定や問題の解法を過去になされた研究・思索からとってくると言い換えられうるのではないだろうか。哲学において(おそらくは数学においても)過去の他者の研究や思索に依存しないで誰かが研究や思索を進めていくのは、少なくとも天才ならざる我々には不可能であるし、古代においてならばともかく近代以降においては天才の爆発的才能をもってしても不可能であり続けている。
_ 近代以降、学問は大学のような組織に組織化されて、その中で教育が行われ、研究が進められてきた。結局、そのような組織と無関係になされたものは学問とは呼ばれえないということになる。過去を記憶しそれに依拠するもののみが学問の正当な継承者となりうる。それは、何か単一の統一的システムにのっとる数学や自然科学にとどまらず、人文科学や社会科学においても同様である。
_ 過去にのっとらないものを哲学だと主張しても、それは何か宗教がかったものでしかない。否、宗教ですら過去に依存しているはずだ。あのオウムですら仏教やらなにやらのつぎはぎであった。あるいは狂人の妄言ですら、そのような過去から自由でありうるだろうか。
_ 数学や哲学が暗記ではないとしたら何なのか。独創的な思い付き。それはどこにあるのか。記憶された過去をうまく組み合わせて新しい何かを作り出す。しかし、結局それは過去には試されなかった組み合わせを試しているだけではないのか。あるいは、反復され繰り返されるモチーフに加えられた些細でランダムな差異を君は独創性と呼びオリジナリティと呼ぶのか。
_ それで良いのかもしれない。些細な差異が与えられてさえいれば、結局同じ原型の反復でしかなくても、我々は満足するのだ。かくして消費財としての作品が乱発される。
_ 複製可能な作品の時代にはアウラが失われると言われた。個物としてのそれは確かに失われたといっても良いだろう。映画にしろ写真にしろ、あるいはそれらの延長上にある全ての表現物は同じモノが無数に繰り返し存在可能であり、それらに個物としてのアウラはない。
_ アウラは種のレベルに移った。それこそ順列組み合わせのように乱発されるハリウッド映画やギャルゲーの中でなぜスターウォーズでありKanonなのか。それらは結局反復の中で与えられた単なる差異でしかないといいうるかもしれないのに。
_ 順列組み合わせといえば、一定程度の規模に達したSS業界はどこかそのような様相を呈する。過去においてはEVAがそうであったし、現状ではKanonがそれに該当するだろう。およそ考えられうる要素の組み合わせがことごとく試され、組み合わせという反復の中で些細な差異でもって競われるような世界である。もっとも、EVAの場合には既に一次作品からしてそのような代物であったのであるが。
_ そんな状況下において生産者や消費者の美徳は何であろうか。オリジナリティを評価するなどというのは、ほとんど偶然によってもたらされる些細な差異を評価するというのに等しく、つまりはギャンブラーの美徳でしかない。重要なのは些細な差異ではなく圧倒的な反復であり、つまりそれは暗記である。原型に対していかに忠実でありうるかのみが評価の対象である。それは別の表現で言えば、訓練である。生産者は忠実な反復として生産すべく訓練を積み、消費者は反復される原型に対しての反応を訓練する。それこそがこの状況下における美徳なのである。
_ あなたにはくんふーがたりないわ。
_ 際限ない島宇宙化というのは確かに実感としてはある。オタクであれば一定程度の広がりを持つエリアに対して一定程度の知識をもっているという状況は消えた。鉄・写真などの周辺分野を巻き込みつつ、アニメやゲームをその歴史を含めて習得するなんてのは、せいぜい我々の世代までだろう。ゲーオタは原作モノでもない限りアニメを見ないし、逆も然り。
_ それは、組織立ったオタク育成システムみたいなのが喪失したというのもあるのだが、まぁ、とりあえずその話は脇に置こう。
_ ただ島宇宙化が際限なく展開するかというと、そうでもあるまい。分裂が一定程度に至り個別のエリアを構成する実際の消費者が一定数以下になった時点で、そのエリアは商売として成立しなくなる。同人やネットでの展開というのもありえるだろうけど、一定程度の細分化以降は逆にそれらの中でのメジャーへの逃避が始まるように見える。単一作品での一館制覇こそなくなったが、ギャルゲーの中での葉鍵の位置などはどうか。今年の夏、葉鍵は西館隔離だけどね。
_ 結局、オタクが消費者でありかつ生産者であるという時代の終焉かもしれない。もっとも、社会全体から見れば大衆という圧倒的な消費者の存在はいまさら語るべくもなく厳然と存在していて、むしろ島宇宙化は大衆が消費者であると同時に生産者となったために起こったと見られている面もあるのだが。
_ 自由や自己決定はどこにあるのか。我々の活動は生物的・文化的・歴史的に制約されている。過去の反復の中で些細でランダムな差異をもって自由とするしかないのか。
_ 我々は生物的・文化的・歴史的な制約のもとにある一方で、我々自身がそのような制約の最先端として未来を決定していく。歴史は作られて続けている。例えそれがランダムに与えられたとしても、我々というこの場所でのみ未来の制約は成立する。少なくとも、決定は此岸でなされているのであって、彼岸の彼方でなされているのではない。その限りでは、少なくとも決断の端緒は我々は握りつづけている。
_ では、自由はどこに行ったか。
_ 彼は自由に意思決定をしている。ここで「自由に」とはどういうことか。他者の影響を排してとかそんなものか。彼の周囲に観察される現象からの単なる帰結ではない意思決定とも言いうるかもしれない。では、周辺からの帰結と意思決定とが一致した場合はどうなるのか。その時彼には自由の可能性は残されていないのか。周囲に従うというのも一つの自己決定ではないか。
_ 「私は自由に意思を決めている!」この主張はいかなる時に妥当なものとなるか。特に妥当性を判断するのが主張者自身であった場合にはどうなるか。
_ 以下、PLAにおける私の議論を参照のこと……で済ませてしまえば良いのだが、もう少し議論しようか。
_ 神はなぜ悪の存在を許すのか。それは自ら悔い改める余地を残すためである。同様に、信仰も自ら選び取られたものでなくてはならない。と主張する一派が存在する。彼らにとっては神の全性よりも自由の崇高さが勝るように思える。あるいは神には自由がまったくないのかもしれない。神の前においては全てが明らかであるのだから。いったいどこに自由の余地があろう。だから、神が「私は自由である」と主張しても信用してはならない。神には自由という形容詞を与えてはならないのである。もっとも、神に錯誤などあろうはずがないから、その場合かの主張者は神としては偽モノであり、その限りにおいては自由でもありえるのである。例えば神を装う自由とか。
_ 神ならざる我々には「私は自由である」という主張をする権利がある。では、この主張は単なる叙述であろうか。単なる叙述であるならばクリプケンシュタインが言ったように、この主張は主張者の他の行動や周辺状況によって真偽が判断されるのである。
_ だが、この主張は多くの場合むしろ決意表明とするべきではないだろうか。だとすればそれは感覚の表出と同様に取り扱う必要がある。すなわち、「私は自由である」という主張が叙述ではなく決意表明のようなものであるとするならば、もはやそれは真偽を問うことが不可能である。そして、このような主張が真偽不明であるとされることが、自由の存在を示唆しているといえるのではないだろうか。もっとも、この場合の存在とは言語ゲームの内部における存在ということなのだが。
_ そのような言語ゲームの中で我々は生きている。無論、言語ゲーム自体も徐々に変わりうる。感覚の表出を真偽不明とするような言語ゲームがフェードアウトする兆しを見せ始めている中で、いつまでも決意表明が真偽不明であるとは言い得ないだろう。
_ だが、少なくとも今、私はあなたに問おう。「君は自由であるか」
_ BGMをK.M.E.のHOPEにかえて、しこうを切り替えてみる。
_ 他人の痛みがわかるというのはなんだろう。私は他人の痛みが知りえているのかということは、いまさら議論すべきほどのものではない。あまりにも容易に、我々は他人の痛みというものを知ってしまう。
_ こんな些細な問題に拘泥することを止めた我々は、その先の問題を考えねばなるまい。すなわち、他人の痛みを知るということは我々の言語ゲームの中でどのような役割を果たしているのか、このことを問うべきではないか。
_ 痛みを単純にマイナスの効用と捉えると仮定して、あるひと(ひとは痛みを感じるモノだ)を痛みが襲っている時、そのことを知った我々は心配したり手当てをしたりするだろう。あるいは、嘲笑したり満足したりするかもしれない。いずれにせよ、ある痛みを知ることで、我々はそれに対応した次の行動を行う。
_ 他人の痛みなどわからないと主張する人々は、少なくとも他人のある種の痛みに対して反応する術を知らないのではないか。その無知から来る不安を抹殺するために、他人の痛みを知るという自体を否定して安心感を得る。そんな論理が働いているのかもしれない。
_ 無論、今まで述べてきた構造は痛みの場合に限らない。例えば他人の幸福(快楽とはとりあえず分けておこう)という問題も同様の構造をもっていそうである。
_ 我々は幸福を共有できると言う。他人の幸福を知り、それを自分の幸福とする。これは結構普遍的な反応だ。だが、この普遍的な反応は時として安易な逃避場所になる。圧倒的な悲劇、圧倒的な苦痛に対して、それを幸福と誤読する。観鈴における世界の終わりを彼女の幸福と読み替えて、何とか反応する術を見出した僕らは何かから逃走したのではないか。
_ 他人の苦痛に対して無力であること。その無力感が苦痛(少なくともマイナスの効用)を伴うものであるならば、これは他人と苦痛を分け合うことにならないか。幸福を共有することが可能であり推奨されるべきことならば、こんな形であっても苦痛を共有することは推奨されるべきとされて良いのかも知れない。
_ 僕らは彼女たちにひたすら恋文を書く。それが届かないことを知るが故にこそ、書きつづける。
_ 理性において理想を夢見るような人間は、往々にしてその理想によって自ら傷つくような事態に遭遇する。彼の理想はまさしく彼の理性によって導かれたものであるが故に、彼に対して最も強大で圧倒的な刃となる。
_ ある理想を掲げた人間がいた。それによって世界に幸福がもたらされると考えたのだ。しかし、彼の理想を追求することが必ずしも世界に幸福をもたらさないことが判明する。そして彼は矛盾に直面する。あくまで理想を貫いて世界の幸福を損なうか、理想を曲げて世界のために自らを犠牲にするか。
_ 無論、これは典型的な錯誤に過ぎない。彼本来の理想とは世界の幸福であって、掲げられた理想とはそのための手段に過ぎなかったのだから。理性は時に判断を急ぐことによって錯誤を生む。世界の無限を前にしては、無限を目指しつつも有限の理性には限界がある。
_ これを人間の本性と称することができるかもしれない。有限に縛られつつも無限の彼方を志向するような、そのような活動こそ神ならざる人間の本性なのだと。
_ そうだとしても、前出の彼は決して誇らしくも嬉しくもないだろう。そこで判断を誤ったのはまさしく彼の理性なのであるから。もしかしたら、この錯誤によって彼は世界に何らかの不幸をもたらしてしまったかもしれない。その錯誤の責任は疑いようもなく彼にのしかかる。
_ 考えてみれば、無限の権能を持つ神であるならば一切の錯誤とて存在せず、そうである以上、神においては錯誤の責任をとるというような事態は存在し得ない。責任をとるという事態は有限者にのみ存在する。
_ 合理的に考えれば責任を負う必要性はまったくないような事態においてなお責任意識に苛まれる人々がいる。彼らはそのことで彼の自由と理性の保証を得ているのである。ある理想を描きだす自由と、その理想のための方途を導きだす理性と、それら二者を確実にその手につかむために彼らは必要のない責任を担うのである。失われた翼の痛みのように。
_ 圧倒的な反復の中で些細な差異に過ぎなくても、あなたは自由と理性をその手にしっかりと握りつづけていられるか。そして、あなたの目前にいる彼はあなた同様のひとだろうか。神を目指しつつ、神に決してなれない我々は幸福だろうか。
_ ともあれ神においては幸不幸は無意味であるのは確かだろう。無限で完全な神においては常に充足のみが存在し不充足ということはなく、幸福も不幸もないであろうから。有限な中でのみ、幸福とか不幸とかが存在するのであろう。
_ もっとも、このことは個人的にはあまり好ましい事態ではないのだ。悲劇を通してのみ、差異を示すことによってのみ、幸福だとか大切な何かだとかを提示することができるというのは、表現に関わるものとしては敗北であると感じている。
_ それは単に表現における限界なのか、あるいは絶対的な価値など存在しないということの現われなのか。語られず示されるのみのモノが存在することは認める。示されるにしても、それは差異によってのみ示されるということなのかどうか。そういった差異や落差を介せずに何とかして価値を語りたいと思ったのだ。
_ しかし、やはり有限の中での結局は些細な差異の中に僕らは幸福だとか不幸だとかを見出すのだろう。例え、その表現の中では悲劇を提示していなくても、共通理解の中に比較の対象を求めることで価値の提示を行っている。ある種のノスタルジーとか。そういうことを承知していても、やはりそこには何らかの敗北感が存在する。完全になっては失われてしまうことも知っていながら、それでも完全を求めてしまう。
_ それは、恋と失恋を同時に感じることかも知れない。
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