_ 肉体を捨て去ったりとか、あるいは肉体を別種の物にしたりとか。そういう事で不死が得られ、結果として可能性の拡張や自由が得られる、と。それで得た無限に思える時間と権能を何に使うのか。あるいは、不死/長命ならざるものと分かれて生き続けるのはどうなのか。とか、そんな問題が提示されていて、考えてみちゃったりするわけなのだ。
_ で、必ずしもそういうのはプラスの結果をもたらさないと結論する。
_ でも一方で、この世には不条理な死とか不合理な制約とかそういうものが溢れまくっていて、とにかくそれを何とかしたいという衝動から、不死だとか長命だとか能力の拡張とか進歩史観とかそういった一連のものが生まれるのだろう。悲しみ・苦痛・無力、そういったマイナス方向の価値は無いほうが良い。
_ 価値は結局差異から生まれるから、それらを抹消すれば必然的にプラス方向の価値も巻き添えになる。それはそうなのだ。だから、争いの無い社会はつるつるとした透明な生き難い社会かもしれないけど、だからといって生まれてきて10年ちょっとで爆弾抱えて道連れ含めて全員死亡とかそういうのはせめて無くしたい。爆弾一発で数十万人さようならというのは、2度あることは3度あるなんてことにならないようにしたい。
_ 死んだらそれでおしまい。この場合の死ぬってのはフィクションなんかでの中にも敷衍するには単に肉体的なのに限られないけど、とにかく生を奪われたらおしまいということ。「生きてさえいれば」なんて言うと笑う馬鹿がいて、確かに単なる肉体的な生はそれだけじゃ何にもならない。でも、フィクションにおける拡張にも耐えるような意味での生を対象に考えるなら、確かに「生きてさえいれば」なのだ。
_ 未来を構想し、それを実現しようとすること。少なくとも僕にとってはそれは殆ど最高の価値を持つ。そのための最も基本的な必要条件が生存権に集約する。人権ってヒトがひとであるための条件で、だから、すべての人権は生存権に帰着するとは思わない? 健康で文化的な最低限度の生活。結局リヴァイサンはこれさえ保障してくれれば良い。あとはすべてテクニカルで個別的な実装だ。
_ 結局、定言命法に帰着するのかな。生を大切にしなさい。生の主体になりうるひと(カントは理性的存在者と言ったけど)は、今のところの常識ではヒトだけだけど、その内もっと拡張されるだろう。拡張されるというのはフィクションの読みすぎか楽観主義か、そんな批判を受けそうだけど、少なくとも厳密化はしないとならないのは確か。ありがちに過ぎるけど、脳死とかクローンとかね。
_ その厳密化の作業を第一に担うのが思想の研究に従事している人間だと思うのだ。だから、思想の方で怠惰に過去の研究にかまけていると、すぐに現実に追い越される。思想は常に現実のさらに先を想定するべきなのだ。現実がそこに追いついたときに指針になるのだから。それは同時にフィクションの実用的価値ということでもある。
_ ……やっぱり戻りたがっているように見える?
_ 現況のドコモとの契約はデータプラス+P-P@C20(+継続割引)なのだけど、これだけでmoperaに20時間まで定額+超過分1分10円(ISP料金込み)でダイヤルアップできるはずだよね。なんか、課金情報を見ると無料通話分から充填されてる気がするんですが……。
_ ここの「「P-p@c」で「mopera」サービスをご利用頂くには、「P-p@c」へお申込み頂く他に、別途「mopera」メールサービスのお申込みおよび月額基本料が必要となります。」って記述での「mopera」サービスってもしかしてダイヤルアップアクセスサービスも含んでたりするのか? しかしそれでは他のこの辺とかの記述と矛盾するよなぁ。
_ 乞う、助言。
_ トピックジャンルがこれで正しいのかどうか。とりあえず終わりまでやった。
_ 雪ちゃんの人は昨日の雑記で以下みたいに書いてる。ゲームという業界で勝負しつつ、ファントム以来こんな作品ばかりリリースし続けるnitro+は、雪ちゃんのこの主張の典型的な証左なのかもしれない。
_ ところで単に魅力的な「世界」だけを提供することが、居心地の良さを提供することに結実するだろうか。そもそも「魅力的な世界」はなぜ提供可能なのか。
_ 雪駄さんも書いてるとおり、そして私も先週書いたように、価値はいずれ相対に過ぎないのであれば「魅力的な世界」にその魅力の源泉を与えているのは何かとの比較である。それは例えば学校社会というゲームじみた現場で足が速くないとか成績が良くないとかそういう状況との比較なのではないか。
_ そうなると魅力的な世界に耽溺したいという欲望は原理的には適えられなくなる。魅力溢れる夢の魔力は、いつか覚める先にある現に依存している。覚めない夢を見ているとしたら、それは今あなたを悩ませている現となんら変わりないだろう。そしてそこには特別な魅力もないだろう。現との落差ゆえに夢は魅力的になるのだから。
_ 一方で、いつか失われる時が、覚める時が来るからといって、それを拒絶するのもある種の愚である。傷つくのを怖がって人と触れ合わないと称する一連の人々と同様の愚かさがそこにはある。フィクションは所詮道具である。しかし、それを崇高へのものとするか虚しい慰みへのものとするかは用いる人にかかっている。
_ いつか現に覚めねばならないとしても、夢が単に与えられるものでなく、勝ち取るものであったなら、そのことは僕らに何らかのものを与えてくれるだろう。そういう意味ではゲームにおける競技的な性格は非常に重要なものになる。徹底的な訓練と反復、崇高なものをかけた勝負。その境地をゲーマーは目指す。そこで得られる達成感や敗北感こそが重要ではないか。なぜならば、徹底的に真剣に何かをやること、そして、そこからもたらされる達成感や敗北感は、今となっては現では手に入らないものになりつつあるから。
_ GPMに高揚し、AIRに絶望したというのは結局そういう事ではないか。私はその世界にいないのだ。でも、その世界を導いたという自負はある。その自負は延々とWizardryやRaveRacerをプレイし続けるときのそれと同じものである。
_ とりあえず綾芽シナリオ。
_ なんだちゃんと出来てるじゃないか。ONEの二次創作としては結構良い位置につけるんじゃないかな。アレンジサントラにも使えるあたりが良。シナリオ毎にコメントつけたくなっちゃうぐらいの出来であったりする。
_ 乃逢シナリオ。綾芽シナリオはONEの二次創作の域にとどまって、その中で精度を上げているように思えたのだが、このシナリオでは逆にONEとの差異が見えつつある。
_ ONEにおいて問題は全て主要な登場人物にのみ収斂していた。彼らが個人的に抱え込んだモノが問題であって、それを彼らは個人的(一人でという意味ではなく、社会的にではなくという意味で)に乗り越える。そんなシナリオ展開であった。一方でONE2(乃逢シナリオ)は不合理が外部からやってくる。というよりも、外部が明確に存在している。「大会」後の展開などは登場人物たちに外部の人間から不合理が押し付けられるという意味で典型である。ONEであれば不合理は外部といってもせいぜい登場人物の肉体的不具合からくるものであって、外部の人物からのそれは殆どない。外部の人間の不合理な侵襲、それがONEで見出されるとすれば長森シナリオのあの部分だが、あれも浩平自身が望んだ結果として単に道具的に立ち表れるものでしかない。一方のONE2では少なくとも乃逢シナリオにおいては「2人で」というキーワードに反して、それなりの社会がバックに見えている。せいぜい2人+サブキャラクター1人程度で展開するONE(やその後のKey作品)とは異なっていると言えよう。
_ ONEからKanonへ何が引き継がれて、何が捨てられたかを考えると、その捨てられた部分を拾い上げたものがONE2だということになる……ほどには事態は単純ではあるまいが、端的に言ってしまえばそういうことである。
_ とらハの場合「居心地の良い優しい世界」はシナリオ内過去/現在とシナリオ内現在/未来の対比によって生じさせている場合が多い。類型的に言えば、抱え込んだ問題(ONEとは異なり、この問題は社会的に生じることもあれば、外界の不条理からもたらされることもあり、個対個の関係上で生じることもある)を「居心地の良い優しい世界」の住人たちで形成されるコミュニティの助けによって解決される、とでも言えるだろうか。
_ ここで重要なのは、とらハを「居心地の良い優しい世界」と評する時、アリサを襲った不条理やそのほか全ての不条理は外界からの侵襲とみなされているということである。極端に言えば、悪は全て外界から来て、そしてコミュニティ内部の住人たちの協力で排除される。とらハの場合では、プレイヤーがどのように感じるか以前に、まず世界の提示そのものが「居心地の良い優しい世界」としてなされている。
_ 上のような記述は実は……などと勿体をつけるまでもなく一種の詭弁論理である。世界という語をコミュニティの舞台と物語の舞台と二つの用法を混同して用いているからである。プレイヤーがどう感じるか以前にとらハが提示しているのはあくまでもコミュニティーの舞台という意味における世界での居心地の良さ・優しさである。そして、この意味での世界には悪の起源となる外界が必要で、それをも含めた物語の舞台としての世界は、影王さんの指摘の通り、悲劇的な事象が存在している。特に、とらハの場合は外界を悪の起源として設定しているため、外界はむしろ徹底的に陰惨な物語が提示される場合もある。
_ 今までにも何度か私は「悲劇を通してしか大切なことを語れないのは、叙述における敗北である」と言ったのは、このようなとらハの構造を典型とする一連の諸作品に対する批判であった。
_ ところで、ある世界に魅力を感じ、それに触れている時に居心地の良さや優しさを感じるというのは、何度も述べ立てている通り、現との差異から生まれている。ここで重要なのは魅力ある(物語の舞台としての)世界そのものは客観的に見て(??)居心地よく優しい世界である必要はないということである。私が見るに、影王さんの論はその展開としては正しいのだけれども、すでに前提の時点で齟齬が生じてしまっている。
_ 魅力は差異から生まれると言った。そして、我々(??)において問題なのは現は厳しくとも何ともないということなのだ。それゆえ、客観的に見れば(??)、悲劇的で人にも地球にもさっぱり優しくないような状況であっても、この凡庸たる現の日常に比するなら光り輝く魅力が生じるのである。nitro+の諸作品に魅力を感じる人は多いだろうし、私個人の感慨としてはそれに触れている時にある種の「居心地のよさ」すら感じる。現において欠けているのは悲劇にせよ幸福にせよ、何か劇的なことそのものなのである。
_ とらハを例に取るならば、とらハが提示したコミュニティとしての舞台たる世界は居心地よく優しいものとして描かれている。プレイヤーはその(コミュニティとしての舞台たる)世界の魅力の源泉が、外界における悲劇や不条理(軽くは恋愛上のすれ違いから、重くは暴力や肉体的制約までの多様性はもっている)との差異から来ることもまた知っているのかもしれない。結局ハッピーエンドで終わる(とらハにおいてそれは殆ど保証されているといって良いだろう)なら、悲劇は大きいほうが良いとまで言われうるかもしれない。あるいはそれは「強姦されてハッピーエンド」というキーワードに結実するかもしれない(GENさんとこの議論とはずれるけど)。
_ そして、それでもなお現にとどまり続けることは、もはや宮台あたりが説教するような倫理的な要請(ある種の禁欲)に成り下がっている。
_ 島宇宙化した個々の小さなコミュニティにとどまって、紛争が起きそうな相手とは交渉しないというのは殆どディストピア寸前であるというのは確かだ。しかし、では我々は色々な意味での弱者に苦痛や死を耐えろと要求できるのか。
_ ……などと反論した所でなんら問題は前進しない。コミュニティがいかに均質であろうと、少人数から構成されていようと、あるいは自己充足的であろうと、他者との紛争そのものの回避、ひいては我々がせめて滅したいと思っている不条理な悲劇の減少や消滅に寄与するとは思えないからである。他者は抹消できないゆえに他者たりうる。コミュニティの外に他を見出すことが出来なくなったとたん、我々はそれを内部に見出すだろう。全てが一であるなどという神の概念のような事態に達するのでない限り、他者との交渉や紛争を回避する方途はない。いかなる社会システムを構築しようと、社会というものの前提からして不可能なのだ。
_ とはいえ、ある種の悲劇は避けられうる。貧困その他物的な問題であれば、そのような悲劇を潰そうとして不可能なことはないと思う。それすらも間に合っていない現状ではまずそちらに対応することが先決ではあろう。
_ だが、いずれにせよ我々は問題にたどり着く。他者との交渉や紛争そのものは避けえないにもかかわらず、そこから何らかの悲劇的な事態が生じることだけは避けようとするとき、私が思いつく限りの手立てはそれこそ共生の理念ぐらいしかない。だが、共生を強制することも「汝の隣人を愛せよ」と強制することも許されない。近代においては、そのような理念はたとえ外から与えられようとも、自ら納得して受け入れられるのであれば、自由意志の発露であると考えられた。あるいは、自ら変えていけるようなシステムであれば、当初はそのシステムが帝国主義的に振舞っていようと許容されるとも言われるだろう。
_ しかし、それはもはや我々にとっては詭弁としてしか響かない。近代主義がどのように失敗し、どのように自殺したかを我々は前世紀において嫌というほど目前にした。そして、その失敗や自殺が近代主義そのものの矛盾によるものなのか、それとも運用におけるミスであったのかすらも判断がつかない。そして、判断がつかないなどといって逡巡しているうちにも……。この話題は国際政治や一国の社会全体などに限られるわけではもちろんない。およそ他者との交渉が問題になる限り、すなわち、ひとにおける全ての状況下においての問題である。
_ こんなことを思い心悩ませるのは、失われた翼に痛みを感じるようなもので、大地を歩いていく仕方を本当は知っているのに、空を飛ぶことを願って止まないような、そんなことでしかないのだろう。出来る限りを尽くして、やり方がわからないなら試行錯誤して、そうしていくしかないのは解っている。空を飛ぶことを願う暇があれば、一歩でも進んでみようと、あるいは進み方を試してみようと、してみるべきなのだ。
_ 結局、元の場所に戻る。理想や直感が単純に一足飛びに現状を改善するわけではない。今まで、その二者を結んでいた定型的なやり方は、どうやらうまくいかないことも多いようだ。だから、その新しい結び方を色々試してみるしかない。
_ つまり、現状を諦め顔で語ってみたり、時には理想が天から降ってくるが如く望んでみたりだけじゃダメということ。
_ 再プレイちう。前回プレイしたのは2000/9/17から。……内容はともかく思い溢れすぎていてダメな文章だ。いや、今日の午前中に書いた上の文章だって50歩100歩なのだが。ONE卒を経る前だったらこんなもんか。
_ DREAMの観鈴をやり直していて、意外に感じたのはそのシナリオの短さ。起承転結として類型化できるかどうかはともかく数日単位で状況が変わる。この辺になぜか新鮮味を感じた。単純に状況を提示して、単純に展開させているのは、ある種の強さを感じる。無論、今の時点で再プレイする私はAIR全体の中ではここはせいぜい1/3でしかないことを知ってはいるものの、この単純ですばやい構造には魅力を感じる。多分、その魅力ある構造は色々な制約(説教とかハッピーエンドとか)から自由だからなんだろう。既に時期としては古典として取り扱うべきかも知れない作品の魅力を再発見した気分。
_ ひとを楽しませるために使う力、とかその辺に食らってみたりしつつ。
_ 昨日のAIRと同様に、初見時にあったインパクトが薄れてかえって見通しが効くようになる。今までにも何度か再読しているのだが、今ひとつ一章には乗れない。妙に気に障るセンテンスが続く。その勢いで二章もまた今ひとつというイメージが漂い続ける。三章にはいって、いかにも私好みのスタイルに入ると気分は確かに変わりはするものの、全体のイメージから少し離れるその内容は短編として遊離してしまって、作品全体のイメージを変容させえぬまま四章に突入する。
_ 四章は作品全体(あるいは「三月〜」シリーズ全体)を圧縮したような感じで、イメージと叙述が錯綜する内容に幻惑され気味で、何か重要なことを見落としていそうな気がしてならない。とりあえず、今回は(文庫版の)巻末の解説にもある「ノスタルジア」に関するあたり、あるいは「世界の本当の姿」に関するあたりに奇妙な引っ掛かりを感じた。とりあえず、引用しておこう。
_ 擁護するわけではないけれど(と言っても彼を擁護する最右翼になりつつあるのは確かだが)、NOGさんのこの記述にはちと違和感。
_ 文体論述スタイルの統一という面ではまず初出というものの文脈を考えればそこに相違が生じるのはほぼ当然ではないでしょうか。想定している読者、設定している論題などで正統的な書き方も変化してくるわけで。……ちうか彼ならデリダたん萌えハァハァとかだって書きかねないよな、とか脳裏をよぎるがこれは余談中の余談。
_ むしろ、そういう異質な文章を無節操に書きまくって、無節操に集積した本を出すことで、彼自身が「郵便的不安たち----『存在論的、郵便的』からより遠くへ」でも語っているように、他とは無関係に林立する趣味的共同体を横方向にぶち抜きたいと構想してるのでしょう。そして、彼が見ている現状(私は必ずしも同意しないけど)を前提とするならば、その手法はそれなりに有効だと思います。
_ そこでNOGさんが言うように初出を強く明示することで文脈を明らかにすべきか、あるいは初出情報といった文脈の制約から解放してテクストを自由に読者に託すべきかという問題も出てくるはずなのですが、そこまで意識的にこの本が作られているかどうかは不明。
_ 以上、反論と言うほどもない違和感ですが、一応。
_ 恩田の「黒と茶の幻想」を読みながら、旅とか考えていて、ふと一人というテーマに思い当たる。
_ 一人暮らしをしてもう5年目になる。しかし、不思議と「一人である」と感じることは少ない。1年目にして既に豆満江のMLは稼動していたし、1年半ほど立つと徐々にIRCに移行して、3年目の終わりにONE卒という転機を迎えて……と、ITのおかげというべきか面子は徐々に入れ替わりはするものの雑談を繰り広げる場所は確保していた。無論、そういう以外の大学の友人の集まりなんかも、企画屋さんがいたおかげで月一回の定例の飲み会を始めとして、安定的に確保されていた。
_ むしろ、そういう所から切り離されるときのほうが無性に「一人である」ことを痛感するものだ。例えば、実家に帰ってすることもなく、一人時間を潰している時。そんな時は時間を潰そうにも、潰しようがなくて途方にくれた挙句「一人である」ことを痛感する。例えば仙台で休日をすごす時は、自転車に乗っていつもの本屋めぐりをして、いつもの喫茶店で戦果を確かめて、いつものスーパーでちょっとマシな食料を調達して、いつもの時間割で日曜の夜のTVを眺めていれば良いのだ。けれど、実家に戻ると本屋も喫茶店もなんとなく馴染みがないし、夕食の心配をする必要もなく、TVは特に主張しなければ家族の誰かが設定するだろう。近くに家族がいたとしても、やはり「一人である」のだ。……別に家族が嫌いなわけではないよ。
_ そんなだから、最近は実家ですることを失うと電車に乗って大船に見つけたちょっと良い感じの喫茶店まで行って、高校時代に行き着けた本屋で漁った本を読みに行ったりすることもある。もちろんその前にN.Y.で12週走るのを忘れちゃならない。
_ つまり、何かに没頭することもないで居るときが「一人である」ことを痛感するのか。そうかもしれない。他にも「一人である」と感じる時がある。それは移動中の間である。やたら実家に帰る----その実態は殆ど上京して遊びに行くなのだが----私は毎年何度も仙台と東京・逗子を往復している。それだけ多くの回数を移動しているにもかかわらず、そのそれぞれの往復行を結構しっかり覚えている。正確には「一人である」と感じた瞬間を覚えている。最初の上京で宇都宮線快速に乗って学術文庫の「ウィトゲンシュタイン」からふと目を上げて眺めた向かいの親子連れとか、始発の新幹線で即売会に行く朝に見た八木山とか。
_ 周りに馴染んだ友もなく(寝てたり没頭したりしてる人は除いて)、すべき事から一時離れて、自らに課した役割みたいなものもなく、ただ「ある」時、私は「一人である」と感じるのかも知れない。
_ 私は「移動」する時、その「移動」に対する準備を入念にやるタイプだ。とりあえず、BGMと文庫の選定は欠かせない。ノートやPDAに色々設定するのも重要だ。そうやって結構気合入れて準備したにもかかわらず、結局のところ、移動時間の半分は無為に過ごすことになる。そして「一人である」と感じるのだ。
_ けれど、最近その「一人である」という感触を得ることが少なくなってきた。普通と快速を乗り継いで仙台と東京を移動していても、もうそんなに長くは感じない。一番最初にそれをやったときは酷く長い時間を、何をするもなくひたすら列車のシートに座り続けていた記憶があるのに、最近は仙台を16時に出ても岩沼あたりで眠気が襲ってきて、次に気付くと郡山なんて事が多い。眠気じゃなくとも、持ち込んだ本や作業に没頭していることは確かに多くなった。そういえば、最近じゃコミケの待機行列なんてなんということはない。むしろ、チケットで入った時の設営を終えて会場を待つ時間の方が長く感じる。
_ 多分、それは大船に良い感じの喫茶店を見つけたのと同じで、それなりの過ごし方を私が身につけたということなのだろう。その過ごし方は結構快適なものでぜんぜん嫌いじゃないけれど、どこかで寂しさを感じているのも確かだ。「一人である」と感じるなんていう「寂しさ」の典型みたいなのを失って寂しく思うだなんて矛盾っぽいのだけれども。
_ AIR終了。
_ 再プレイであることを考え合わせても心は劇的には動かなかった。私はKtFのEDを繰り返して快感を覚えるような趣味を持ち合わせたりしているのだけど、とりあえず今回はそういうこともなく淡々たるもの。
_ DREAMには「やっちゃう・やっちゃう・やっちゃう」みたいな選択肢が存在するけどAIRにはないとか、そもそもAIRでは固有名が消去されているとか、そういうテクニカルに使える部分を見た時には心動きはするものの、それは涙が止まらない類のとは当然違う。その辺に関しての検討は大方終わっているので、後は論の補強をすれば良いだけだったりもするし。
_ もっとも劇的でない仕方で心動きはした。その翼で飛ぶことは出来ても、みすずのそばにいることを選んだそらは、みすずがいなくなった後、自らの意志で空の彼方へと飛び立った。けれど、「母」に翼あるお前は空を目指せといわれても、なお大地を走る烏であり続けることは出来たはずだった。それでも彼は空を目指す。空の彼方に悲しみに封ぜられたひとがいるから。かのひとに何かを届けるためにその力があったのではないとしても。
_ 飛ばない翼に意味はないのでしょうか。それとも空を目指すことは翼持つものの使命なのでしょうか。ああ、むしろ、使命だったら良かったのかもしれない。
_ 使命でもなんでもなく、かのひとのために空へと飛び立つ力を蓄えて、大地に知己を残して、空を目指す時の孤独を思え。
_ そんな感じで心動きはしたらしい。
_ sense offで椎子でライプニッツな話はこんな感じで今まで書いているのだけど。大雑把に要約してみると、「ライプニッツはレーゼの理論を理解し得たか」という問いに対する私の回答は、ライプニッツの問題関心は同じ世界観・言語ゲームを共有する中での個人と個人の情報伝達であったのに対して、レーゼの理論の目指すところはそのような共有の背景がないところで伝達が可能であるかという所にあった、という感じでしょうか。目指すところが理解できなければ、どんな華麗な理論展開も詩文に過ぎない。それは多少強く言えば、実用に供さないものや既存のシステムに合致しないものは哲学や理学であっても無意味とみなされるということでもある。
_ というか、去年の10月に書いた文章群、現状と比べてクオリティが段違いなのですが、本当にこれ書いたの俺ですか? 「哲な人に戻ったほうが……」とか言われたけど、もし復帰するにしてもかなりハードル高いかも。
_ 先日のにKISAさんにきゃらっと氏という珍しい向きから反応をもらってみたり。別段、議論するようなものではないのだけど、もう少し私自身の「一人である」ことの感覚を探ってみる。
_ 実家にいるときは別として、私が「一人である」と感じる時は既存の私から一瞬離れて、武装を解いた状態で他人に晒されている時だ。それは同時に、見ず知らずの他人に接しようとするときの心持ちにも似ている。長距離普通列車で乗り合わせた人や偶然即売会の待機列やブースで隣り合った人に話し掛けるような時の心持ちである。知らない土地をごく簡単な地図や記憶を頼りに歩く時の奇妙な新鮮さと疎外感とも言えるだろう。
_ そういうことを考えていると、以前、しのぶさんがAIRの夏影について下に引用したように語った言葉が浮き出てくる。私の「一人である」感覚や一般的な孤独などとは、観鈴の情景は比することもできないほどに離れているのかも知れないけど。(このしのぶさんの文章、特に後者の方はAIRに関する文章の中で最も印象深く私の内に残っている)
_ たまには軟弱に。
_ 何かに心惹かれることがあるとして、その心惹かれるものの本質だか現実だかそういうのとは異なるものに対して、錯覚のような働きによって魅力を見出していることは多い。時には、その錯覚に原因を与えるような現実的事実の類のモノが一切なくて、ただ幻視をするかのように何もないところに何か魅力を感じさせるものを見出していることすらある。
_ 例えば恋とか称される一連の事態は、そのような類型の事態ではないだろうか。幻想と実体という極めて安易な命名によって、そのような事態の対象を二分化するとすれば、恋の対象は実体の裏付けもない幻想であることが多い。というか、拙い経験と伝聞によれば100%幻想である。ついでに言うと、恋が幻想に対する突進であるならば、愛は実体に対する衝動であると言えよう。
_ 現象学風に言えば、恋は幻想という対象へと向かう志向性を持っている。当然のことだが、いかに一般的には恋の対象は幻想と言われていようと、恋をする当人にとっては幻想はまさしく実体なのである。当人が単なる幻想とみなしているような対象に対して何らかの衝動を覚えたとしても、それは恋ではない。
_ むしろ、それは愛なのである。恋においては幻想を実体と錯覚するという転倒が見られたが、愛の場合は恋とはまったく逆の形式での転倒が起こりうる。幻想を幻想とみなした上でなおもその幻想への衝動があるとしたら、それは幻想の実体を幻想として正しく捉えた上での衝動であるという点において、まさしく愛の条件に合致する。
_ そうなると失恋という事態は幻想への衝動が失われた時、覚めた時に起こるものであると同時に幻想の実体が明らかにされた時に起こるのである。実践的局面に展開するならば、「恋に覚めた」というような瞬間だけでなく、「私を受容してくれるあなた」という幻想が崩壊した時にもまた、恋をしていた人は幻想の実体を目の当たりにすることになる。その後に愛の段階がくるのかどうかまでは知らないが。
_ さて、その対象を幻想と知り、そしてその対象は私に対してなんらのリターンも返してくれないと知りながら、それでもある対象への衝動を感じている人がいるとしよう、その人は上記の基準に照らすならば恋の状態にあるのか愛の状態にあるのか。対象の実体を認識しているのだから愛であるとするのは少々早計かも知れない。その対象は実は幻想ではなく実体であるのかも知れない。だとすれば、彼は実体を認識しているとは言えず、いつか覚める恋をしているのだろう。あるいは、その人は自分がいつか覚める恋に捕われているとすら認識しているかもしれない。しかし、もしその衝動がいつまでも消えないとしたら……。
_ つまり、この論立ては矛盾を含んでいると言うことである。矛盾を含んでいる論が意味をなすとしたら、語りえないことに対して言及しているときかもしれない。……などとパフォーマンスをする「私」にとっては意味を持つのかもしれない。
_ 今日の論題「メタ化」
_ 朝は毎週の採血で起こされる。本読みとか続けながらFMとか聞きつつ。台風来てるらしいけど、関係ないし。昼過ぎ。調子が上がらないので洗脳MP3。夕方、きゃらっと氏が来て、頼んだコミックスの受け渡しとか週末の相談とか。夜。カレカノ8〜13巻。襲撃予告があったからには矛と盾を整えておかないとね、
_ SFは海外モノに限る。それは日本人にSFのセンスがないからと言うよりも、SFというスタイルとあの英文和訳調の文体とが合致してSFの魅力が生まれていると思うからだ。SFは世界を提示する。人が死ねばミステリであるのと同様に、新たな世界----「これ」とは異なるシステム----を提示するのがSFである。異なるシステムを語るのに、どこにも属さない中途半端な文体を用いるのはそれなりに有効だろう。もちろん、結果論なのだが。
_ 「ほしのこえ」には萌えなかった。あの作品が文脈的技術的に重要であるかとか、モチーフやメッセージがどうだとか、そう言われているのは解る。しかし、SF萌えの傾向がでつつある私にとっては、萌えない作品だった。「ほしのこえ」は「ここ」に近すぎるのだ。「ここ」に近い物語が嫌いなわけではない。ただ、そういうのは間に合っている。新たに出て来たところで新鮮味はない。
_ SFたるもの大法螺を嘘と言い訳で塗りこめて強引に納得させるだけの腕力を持たねばなるまい。異なる世界・異なるシステムを提示するという事はそういう事なのだ。そうして描かれた異なる世界に僕は萌える。だから、類型化されたサイバーパンクよりも、古典SFの楽観的未来の多様性の方が面白いと感じる事もある。なにせ、古典SFの描く20世紀末や21世紀はもはや我々の延長上にあるとは絶対に言いえないのだから。
_ ところで、SFは海外モノに限るが、海外モノのホラーはダメだ。何せさっぱり怖くない。ホラーが怖いのは恐怖が「ここ」に忍び寄るからであり、そのためには「ここ」の言葉で語られ、「ここ」を舞台とすることが大きな強みとなる。そんなわけで大抵の海外ホラーはSFかスプラッタか、どちらかにしかならない。
_ ミステリの場合はどうか。人が死ねばミステリとは言ったけど、人が死んで証言不能の人物が登場し謎が残されると言うのがミステリの本質と仮定しよう。すると、初期条件・境界条件と支配法則を明示して、続いてそれを展開すればミステリを構成するに足りるわけで、あまり文体とかそういうのは関係なさそうだ。むしろそれ以外の装飾的側面の方が私にとっては魅力の源泉に見える。いわゆる探偵小説の探偵の個人的な属性が色々強調されるのもそういう所によるのかもしれない。
_ 今日も暑いが最悪の時間帯は家に帰っていたのでなんとか凌ぐ。明日はやうち氏が空輸されてくるらしい。多分病室のお引越しも。明後日は説教なのでちとイベント続きな日々。お土産はコミケのカタログ(紙版)が良いなぁと言ってみるテスト。
_ 外出したついでに川内の生協を覗いたらCOOP-NOODLEなるモノを見つける。最初は日清の新製品かと思ったよ。大学生協連合のPB商品なのでしょうな。んで、OEM元は日清なのでせう。確認してないけど。他メーカーがわざわざそんなの引き受けるとも思えないし。
_ んで、生協で文庫2冊で15%セールやってたので、新井素子「チグリスとユーフラテス」を買おうと思って探したけどない。文系までいってる時間もない。ぐんにょり。
_ 失恋というのは結構重要な経験だ。恋なんてのはフィクション相手にするものだけど、そのフィクションをリアルが裏切ることがある。つまりそれが失恋という事象になる。
_ 失恋を知らない人は恋の対象がヒトであろうとそれ以外であろうと、失恋を知る人から見ると浮かれていて危なっかしく見える。こいつら本気でそれが好きでいそうで怖い、みたいな事にもなる。無論、失恋を知っていても、フィクションに傾注してしまう事はある。でもそこにはいつも少し引いた目線がある。いつか破綻すると思いつつも止められないとか、だからこそ好きなのだとか。
_ 別にいわゆる現実で失恋を知る必要性は必ずしもない。ヒトである相手にした恋でなくてもフィクションの破綻を目にする事は出来る。そのためには相当の傾注が必要なのだが、その圧倒的なまでの傾注によって、一部の人々は失恋を知っているように思える。むしろ、フィクションを相手にしつつ、それに傾注しきれない人々の方が失恋を知らない。
_ さて、正確には、リアルはフィクションを常に裏切り続けているのだけど、強引にあるいは周到にフィクションはリアルを先回りして裏切りを隠蔽する。科学革命の構造と同様の事象だ。ともあれ、いつかフィクションは破綻する。そして、フィクションに深入りすればするほど破綻の危険性と破綻の被害は拡大する事は明白だろう。
_ 逆に言えば、フィクションが破綻することを見たくない人間は次々にその対象であるフィクションを変えていったり、深入りしないように注意したりすれば良い。ただし、これは危険だ。フィクションの破綻を避けるためには、リアルに一切注意を払わないというやり方もある。この豪快なやり方が危険なのはあまりにも明らかだが、前者のやり方もまた危険なのだ。
_ もとよりフィクションは矛盾を抱えている。フィクションと私は本来的には断絶していないのに、フィクションはそれを独立なものとしてみなすことで成立している。フィクションが破綻することは避けえない。そうである以上、フィクションは遠からず破綻する事を知らずにいるのは酷く危険な事だ。その危険な事に挑戦するのを止めたりはしないけど、少なくとも推奨はしない。
_ フィクションの内で最たるものは自分とか自我とか私とか、そう名付けられ認識されているモノだ。そして、こいつに対しては対象を次々に変えていったりとか深入りしないでいたりとかは出来ない。そして、いつか破綻する。今まで一度もフィクションの破綻を目にしなかった者にとって、この破綻はさぞや辛いものになるだろう。そんなわけで私としては、前述のやり方は推奨しない。いずれチキン野郎の哀れな末期に過ぎないのだが。
_ ところで、裏切られるのが嫌だからと言って他者を遠ざけているのは、本人に得になるとかならないとか以前に失礼な話だと思う。あなたを悪役にするのを避けるためにあなたに触れないのですよ、みたいな感じがする。勝手に妄想抱いて、それを裏切ったら糾弾するのと殆ど紙一重ではないか。
_ 以上、専門用語でごまかすなら、他我に対して感情移入によって認識を試みれば試みるほど、他者の他我へと回収しきれない側面が露呈するという事とか、他者を知ろうとすればするほど、知りえない事だけが理解されるという事になろうか。ついでに、ここで汝自身を知れとかを引用するとかっこ良く決まるですよ?
_ 日曜1100〜1300な某番組2本がSummer Song Specialっぽいので、これ参考に32MB分組んでみようとか方針転換してみたりして。しかし、Braian Adams "Summer of '69"は定番だね。
_ ハラキリして数日間は気分低調気味だったり、体中に管たっぷりだったりしたのだけど。手術前の管1本状態に戻って、調子が上向いてきたので復活。
_ しかし、脇腹に管が入ってたところがまだ痛むので、当分の間ハラがよじれる様なネタ禁止。とか宣言する以前に溜まっていた巡回で何度も攻撃される罠。っていうか、自覚あるならスレの杜とか見に行かなきゃいいのに。
_ 巡回先はざっと見回しただけなのだけど(2時間近くかかった)。SP48Kさんのこの記述。私がハラキリでおさらばしたはずの症状に酷似しているのですが。心配申し上げ。
_ しかし、色々な処置を経験しましたが、喉にモノ突っ込むのだけは勘弁してほしいです。ゆーさくさんが胃カメラとの戦闘を凌がれたようで、お疲れ様でしたと心底申し上げたい。ただ、私は次(がある可能性は否定できない)も我慢できないと思います。今日、鼻から胃に通されて留置されていた管を抜いたのですが、そのときにも涙が。教授に「男の子は泣いちゃダメだ」と拭ってもらいましたよ。
_ 連続シリーズモノの夢をみた。当初は寝る前に読みかけていたレンズマンの続きについての夢だった。これも単体ではレンズマンのエンディングとしてはありえないもの(「宇宙消失」落ちとVR落ち)で、楽しげだったのだが、その後に展開した5話(+1)はさらに萌えゲーの要素を斬新に取り入れた素晴らしい出来だった。
_ ある街でのとらハ風の群像劇なのだけど、その街で同じように暮らしながら彼らと接してみたり、あるいはメタ的な視点から各人の内心まで立ち入ったりと、色々と込み入った構成(夢だし)。ちなみに+1ってのは、その街で暮らしている視点で、なぜか兄さんとたかゆき君に会っている夢。なんか、速攻で決裂して「君たちの萌えはなってない!!」とか叫んだところで朝巡回で起床。本編では趣味人6人ぐらいで同居して本の重みで家がどうにかなってしまう回とか、坂の上にある学校に行く途中の様子だけをひたすら描写する回とか、映画を撮る回とか。
_ あんなに萌え萌えでしかも趣味的な夢は久しぶりでしたよ。しかもその世界全体が何らかのVRで宇宙で孤独に任務にあたる人間が垣間見る夢と言う裏設定まであったりして。
_ ちなみに大作級の夢の前例に倣い、アニマの人も出てきました。彼女の変化を研究すると(以下略。
_ 花梨、和泉を終了。
_
設定とかネタとかオーソドックスを踏襲して意外性はないものの趣味的。話の内容構成は今の所それなりに上等だと思うが、演出が若干弱いし、ゲーム的表現手法や多重視点構造も弱い。そういう所ではダム夏僕夏の方が優れているか。一定程度はシステム面からの限界かもしれないけど。ただ、EDに関してはうまい演出だと思った。ここは好き。
_ いわゆる伝奇モノの部類に入るのだろうか。ただ、それらしきルートにはまだ入り込んでいないのでこの辺は留保しつつ。とりあえず、田舎ゲーと分類するには相当に弱い。田舎ゲーっぽい設定はあるので、この辺をうまく使えば和泉のあたりとかでもう少し深みが出たように思う。
_ まだまだ磨く余地は十分にあるが大失敗はしない程度。大手らしいと言えば大手らしい作品なのかも。とりあえず今のところはそんな感じ。
_ 犬花梨かわいい。よこせ。
_ 一通り終了。鈴蘭、マリア、アリス、マリア&アリス、雪True、雪Another1、雪Another2、那波Bad、那波Trueの順で制圧。
_ ロリな3人4ルートはともかく、雪と那波の2人5ルートは昨日の2人に比べて、JAGARLさんが言うほどには秀でて面白いとまでは行かなかったような。確かに、幻惑的で魅力的な内容で、その内容を展開するにあたっての昨日書いたような多重視点構造なんかの面では優れている。しかし一方で、意図された内容を如何に実装しているかという見地からではむしろ昨日の2人のルートの方が良かった。
_ 特に那波ルートはシステムや設定に翻弄されるあまりに、他キャラクターとの交流が少ない。そのため、本来の意図された内容から当然要求される可能性の多様性についての言及が不十分なままに終わっている。一方、雪のルートは可能性の多様性という面では十分に開示されていると思うが、それゆえにシステムや設定との対話が不十分になってしまった観がある。
_ いずれにせよ、昨日の大失敗しない作品という評は変わらず。圧倒的な魅力には欠けるが、安全に魅力的という程度か。
_ ところで単なる趣味としては、鈴蘭ルートが単体ではすげー良いのですが、犬花梨を筆頭とする花梨の圧倒的多様性の前にはさすがに見劣りするか。
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