_ 年明けから一気に減少したPort135-139,445へのスキャンが再び増えている感じ。
_ なんとなく。たまにはやり返すのもいいだろう。という感じで。
_ あかりシナリオをやったのだが、シナリオ終盤での違和感が残る。当然それはあの当時としては斬新だったオリジナル作品をどのように全年齢、それもPS作品として、移植するかという問題にもある。実は今回始めてPSE版をやったのだが、その移植に伴う改変自体はかなり精度の高い質の良いものだと思う。
_ むしろ、今回感じた違和感はたぶんオリジナル作品の97年という時代によるものだろう。そこに感じるのは、表現そのもの物足りなさで、ToHeartの系譜に位置する最近の作品であれば、例えば視点変更であったりとか、そこに関わる二人の大きな文脈での(例えば社会的な、あるいは血縁的な)位置による葛藤の外部化であるとか、そういった技法が使われていてしかるべき場面であろう。だが、そのような技法はほとんど使われず、PL=PCという了解事項に寄り添う形で浩之の心情描写に終始している。
_ この点が、多分最近の作品(といってもほとんど2003年以降はやっていないのだが)を経験した自分としては違和感につながったのだろうか、と思う。
_ それはともかく。
_ ToHeartの魅力は結局シナリオとはあまり関係ないところにあるとも感じる。世界そのものの雰囲気がとても美しいのだ。それは、大きな文脈が存在しないこと(来栖川は大きい背景かもしれないが彼女らの個性のレベルに留まっている)があって、なんらの血縁的束縛も、社会的陰謀もそこには無くて、だからといって例えば「田舎」というようなノスタルジーに訴えたりもしない。この世界の特徴は特徴のないところで、そんな空虚さがとても心地よいのだ。
_ 世界には善も悪もない。そんなニュートラルさは場合によっては批判の対象になりうる。だが、この心地よさは揺るがない。田舎的な素朴さとか、逆に陰謀や暴力に満ち溢れているとか、そういったものへの憧れも確かにある。だが、ToHeart的ニュートラルさにも同時に僕らは惹かれる。Airでのゆるぎない弱さという反動的なもの(それもまた魅力なのだが)でもなく、そんな問題には興味がないと言い切っているかのような世界。そんな世界が良い。
_ 高校時代に図書館で見つけて読んだものの再読。当時から変な作品だと思っていたが、実際に再読してみたら記憶以上に変なものだった。
_ 記憶や記録の信頼性が問われるという意味では西澤保彦の作品にも近いような気もするが、この三作の場合、小説という記憶や記録の形態、すなわち「書かれたもの」の信頼性・虚偽性がメインとなる。何がフィクションなのか。読者の前に展開する文章の、どこまでが「書かれた」「書かれたもの」なのか。
_ 平易で簡潔な文体も良い。読んどけ。
_
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_ Fateの広告が表4に載ってる時点で終わっている感じだが、滝本と乙一が書いているので買う。
_ なんというか、内輪向けの内輪雑誌という感じで、しかも妙な自信があるものだから気持ちが悪い。一方で、80年生まれ以降限定と言いながら、東氏が菅野ひろゆき氏と「YUNO」で対談していたりする嘘っぽさ。終わってる。大体10代がこんなの買うのか? という気がするし、内容とターゲット購買層は間違ってない事は認めるがが、スローガンだけがずれている。
_ 高校時代、82年生まれの後輩はエヴァは中学受験の頃やっていたと言っていた。某氏は84年生まれの○学生に合宿で「To Heart」をやらせていた。僕らの中学受験は湾岸戦争とナディアだったし、合宿でやったのはPC-9801Nで「同級生」だった。
_ 世代というのは確かにあって、異世代におけるオタク的である事が如何に僕らに不満であったとしてもそれを見るべきだ。滝本と乙一は78年生まれで、だからこそ僕は彼らを読むというのは確かにある。
_ 適当に巡っていたらマルチエンドの多世界解釈を久しぶりに見かけた。
_ この辺りの話題が、僕らの間でそれなりに活発だった頃、僕も多世界解釈というべき考えで語っていた(こともあった)。もっとも、マルチエンドを迎えるゲームの各ストーリーをそれぞれ個別の世界と考えて、それを多世界解釈と仮に称するとしても、対応するコペンハーゲン的な解釈が別に存在するわけでもない。むしろ、多世界解釈の出自は、多様なそれぞれを統合することが出来ない事による要請であって、それは苦しさ紛れの言い訳のようなもので明確に対立する立場があるわけではない。
_ それはともかく。マルチエンドを迎えるシステムでも多世界解釈が適用不可能なものがある事は指摘しておこう。つまり、多世界解釈における個別の世界はそれぞれが対等な関係でなければならないのであって、それらをメタ的に統合するストーリーやエンディングを内包してはならない。
_ 例えば、「Air」においてDream編での幾つかのエンディングをまとめて多世界解釈として取り扱うことは出来るが、Dream編観鈴エンドとAir編の一部分を多世界的に解釈することはできない。また、プリズマティカリゼーションでの各キャラクタのストーリーラインは多世界的に解釈できるであろうが、ストーリー内での循環は無理である。つまり、初期条件が違うもの、別の世界を引き継いでいるものをひとまとめにすることは出来ない。
_ また、他世界解釈が可能な部分であっても、その部分が全体に対して持つ機能は多様である。
_ 元長柾木の幾つかの作品(「フロレアール」「未来にキスを」「ラストオーダー」など)は、多世界解釈可能な個別のストーリーを「登場人物による試行」として捉えている。つまり、個別ストーリーは何らかのゴールを探るためのものであって、それ単体で完結するものではない。個別のストーリーを一通り終わった後に提示される結論部をもって始めて個別のストーリーが体系立てられる。
_ これらの元長作品は、結論部で提示されるものを重視する限りにおいて、一つの論文のようなものであるといえる。「フロレアール」などは「試行」に当たる個別のストーリーも多少の相互関係を持っていて、厳密に独立したサンプルではない。これもまた論文という形式の中で見受けられうることである。
_ 「Air」も上述した元長作品と同様の構造を持っている。ただし、「Air」では個別のストーリーは「登場人物による試行」ではなく「千の夏」のサンプルとして機能している。往人は彼の母親をはじめとする人々の代表として存在していて、幾度も繰り返された夏の象徴としての3つのストーリーなのである。
_ (続く。かも知れない)
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03/10 谷川流「学校を出よう!(4)Final Destination」電撃文庫
03/16 森博嗣「今夜はパラシュート博物館へ THE LAST DIVET 0PARACHUTE」講談社文庫
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02/23 幸村誠「プラネテス(4)」講談社
02/25 今野緒雪「マリア様がみてる(1)」集英社
02/27 相田裕「GUNSLINGER GIRL(3)」メディアワークス
03/01 丸川トモヒロ「成恵の世界(6)」角川書店
03/24 新井理恵「子供達をせめないで(1)」幻冬舎
03/24 新井理恵「子供達をせめないで(2)」幻冬舎
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加納朋子「魔法飛行」
加納朋子「月曜日の水玉模様」
加納朋子「掌の中の小鳥」
加納朋子「いちばん初めにあった海」
森博嗣「スカイ・クロラ」
有栖川有栖「暗い宿」
有栖川有栖「月光ゲーム」
有栖川有栖「孤島パズル」
小川一水「群青神殿」
神林長平「蒼いくちづけ」
神林長平「宇宙探査機迷惑一番」
神林長平「敵は海賊・猫たちの饗宴」
神林長平「敵は海賊・海賊版」
神林長平「敵は海賊・海賊課の一日」
神林長平「ライトジーンの遺産」
オースン・スコット・カード「エンダーのゲーム」
オースン・スコット・カード「反逆の星」
オリヴァー・サックス「レナードの朝」
ロバート・ソウヤー「フレームシフト」
_ 整理した。2004/02/01, 2004/02/08, 2004/02/11。
_ 「この少女は救った。では、別の少女はどうなったのか」
_ マルチエンドを迎えるゲームにおける多世界解釈の出自、あるいはその要請の由来は少なからずこのような疑問(あるいは罪悪感)にある場合が存在する。このような疑問や罪悪感は「To Heart」や「Kanon」に代表される「ヒロインを癒すストーリー」から当然現れるものであった。
_ 真琴を選ばなければ、彼女はただの家出少女になり、選ばれなかった栞はドラマ好きの病弱少女で、香里とは何の関係もない。個別のストーリーラインで与えられる情報から判断する限り、狐の変わり身とか死病とかは、そのストーリーの世界にはない。
_ 多世界解釈を採用するならば、個別のストーリーラインを別個の世界として捉える事が可能である。そうしてPLは多少の安堵を得る。栞は死ななくなり、彼女を「選ばなかった」選択の責任からPLは逃れる。
_ だが、それでいいのか。それは欺瞞ではないのか。
_ (続く。かも知れない)
_ コメントだと長くなりそうだったので、こっちで。ほとんど自分語りだ。
_ 同級生といえば、なぜか田中美沙が人気があって、黒川さとみ派だった僕は当然ながらその些細な相違点をめぐって儀式的な議論を行ったものだが。
_ それはともかく。
_ 僕がアニメキャラ(のようなもの)に正しく「本気で恋」したのは、2年前ぐらい前からの惣流・アスカ・ラングレーであって、それ以前の黒川さとみとか神岸あかりとか天野美汐とかには、そこまでの感情はなかった。
_ アスカにかなり本気で恋をして気づいたのは、僕にとって彼女が「この世界」に存在する必要は全然ないし、彼女が存在する「あの世界」に僕が関与する必要もなく、むしろ「あの世界」と「この世界」が決定的に断絶している事が重要だということだ。
_ つまり、彼女が存在すると信じる事自体が、僕にとって価値があるという事だ。彼女が「どのようであるか」は属性という見地からは重要ではあるのだけど、それ以上に彼女が存在すると「信じるかどうか」が重要になる。
_ もっとも、僕のこの態度が一般的ではないのは確かで、多分に文学部時代の影響、特に近代哲学での神に関する思弁、に影響を受けていることは明白なのだけど。だから、僕の「本気の恋」は、キャラクタへの偏向よりも宗教における信仰に近いし、一般的な「アニメキャラに恋する」には遠いだろう。
_ だが、そういう偏った「本気の恋」をしながら、同時により一般的な形での「好きなキャラクタへの萌え」を僕は語ることができる。それはある種の教養と訓練から得られる文法に従って、好みを語るための技術を僕が持ち合わせているからで、そういう意味で確かに「教養」は立ち現れている。
_ その種の「教養」は現状貧相なものだろうか。「教養体系」としては貧相だろう。そのような体系の典型例は「東浩紀」的な「ファウスト」的な体系で、それは先日批判したような気持ち悪さとプロバガンダに捕らわれている。それは体系のための体系であり、実体と乖離している。
_ そして、僕や僕に近しい友人が何かを語る際に依拠している教養は、「コミケ」的な何かや「エヴァ世代」的な何かであって、それらもまた一つの体系であり、それなりに有用ではある。だが、問題となる「教養」運動の全体を含むものではない。
_ ある一つの「教養体系」なんてものを、この「教養」運動における一般的なシステムとして確立すること自体が無理がある。もちろん、それを個人や一定の集団の中で構築する事はそれなりに有用であるし、そのような一定範囲で共通する「教養体系」を構築する事は、運動における当然の帰結ではある。
+ うっちー 『「自身」→「自信」ですな。』
+ CF 『指摘どうも。修正しました。』