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元長柾木論 ゲームにおける選択について

1. 序

 元長柾木は1999年『嬌烙の館』から2006年『ネコっかわいがり!〜クレインイヌネコ病院診療中〜』までゲームシナリオライターとして活動し、近年は主に小説家として活動している。以上、Wikipediaより。おわり。
 ちなみに、本人のサイトを見ると『嬌烙の館』以前の13cm作品にも関わっていることがちゃんと書いてある。誰か直してあげると良い。

 元長のゲームにおける仕事は2001年の『未来にキスを』以前と以後に大きく分けられる。彼自身の言葉を用いるならば、前期は「人類史というパースペクティヴにおいて美少女ゲームを定位する作業」であり、後期は「21世紀の圧倒的な楽園を描くこと」である。
 そして、彼の仕事に対する評価はおおむね前期の作品で確定し、前期の作品の特徴である衒学的で作品・業界・消費者にとって自己反省的なテキストこそが彼の特徴と考えられ、彼の支持される所以であった。
 例えば、1999年から2002年までの三年間を西洋哲学専攻の学部学生として過ごしていた私自身などにとってみれば、元長によるテキストはまさしく自省的な存在であり、大変魅力的にとらえられた。とは言え、ここで当時の私の信者ぶりについて、あるいは当時の日記者界隈での元長柾木受容についてなどを述べ立てても仕様がないし、本論集にとっても筋違いであろう。10年近く前の当時の資料など自分自身を含めて散逸してしまっている、というのもある。
 よって、本論では元長の前期作品を題材として、元長の特徴的な問題意識を一つ取り上げ論じてみたい。

2. 問題提起

 さて、『未来にキスを』のCDドラマ『未来にキスを ドラマ&サウンドトラック』のライナーノーツ『元長柾木のしゃべり場』において元長は以下のように記している。

ゲームデザイン的には、今回主人公はほとんど選択らしい選択をしない。これは、登場人物全員をハッピーエンドに到達させるための措置である。この種のゲームでは、主人公に選択された登場人物は幸福になる。言い換えれば、選択されなかったキャラクターは不幸になる――もしくは不幸を抱えたまま生きていくことになる。ただひたすらに幸福のみを追い求めていくこのジャンルにおいては、本質的に不幸を孕むこのようなシステム的矛盾はあってはならないはずだ。この矛盾を解消してやるためには、登場人物が幸福になる要因を、「行動」ではなく「存在」に求めるしかない。主人公が存在しているだけで幸福だ――というのは、この種のゲームのそもそもの立脚点だったはずだ。

 なお、この引用文では「主人公」という語を使っているが、今後の論点の特徴上、「主人公」とプレイヤーキャラクター(PC)とは区別をすべきであり、主人公の後に括弧付けでそれぞれを示す事とする。

3. 『sense off』の場合

 選択らしい選択をしないとされた『未来にキスを』の一作前『sense off』は主人公(PC)が選択をするゲームとして外形的にはデザインされていた。もっとも、強く意図したデザインではなく、「この種のゲーム」のスタイルを単に採用しただけであったのかもしれない。
 デザインの由来がいずれであったにせよ、元長自身は『sense off』がそのようなスタイルであることに関しては自覚的であった事は間違いない。それは『sense off』の物語としての主体は何であったのか、という点からも知ることができる。
 『sense off』主人公(PC)の杜浦直弥の口癖に「それに俺は規定される」というものがある。この言葉はPCと登場人物の約束の言葉と共に語られ、まさに選択の場面で発せられる。ただし、この言葉が受動態で語られている点が重要である。つまり、約束の言葉が直弥を規定しているのであり、その逆ではない。選択しているのは、主人公(PC)たる直弥ではない。
 『sense off』は主人公(PC)たる直弥とヒロインとの二者関係を描く作品である。もちろん、この種のゲーム、つまりエロゲーとかギャルゲーとか恋愛ゲームとかの主題は恋愛だったり性愛だったりするのでそれは当然なのだが、『sense off』においてはSF的な意味合いを含めた共感関係とも言うべき二者関係が描かれている。例えば、織永成瀬とのシナリオにおいては次のような記述がある。

俺は空を見ている。
成瀬は俺の背中を見ながらお茶をすすっている。
しかし、俺たちの視覚はほとんど共有されていた。
だから、向かい合う必要すらなかった。
俺は空を見、成瀬はお茶をすする。
ただその行動だけを続けていた。

 このような「一緒になっている感覚」とでも言うべき共感的な二者関係こそが『sense off』の主人公であると言うことも可能であろう。つまり、『sense off』においては関係性そのものが主人公であり、この関係性が直弥とヒロインを、約束の言葉や思い出された過去を通じて、選択し規定しハッピーエンドに到達させるのである。
 また、上記『元長柾木のしゃべり場』にある「選択されなかったキャラクターは不幸になる」という問題に対しては、『Sense Off オリジナルサウンドトラック&パーフェクトドラマ』において世界の多性を明示的に導入している点を指摘したい。なお、このドラマCDのタイトルは『"WORLDS"』である。
 このように『sense off』形式上は従来の方式を踏襲しながらも、実際には『未来にキスを』同様に選択や意志といった事に自覚的自省的な作品であったと言えよう。

4. 『未来にキスを』の場合

 一方、『未来にキスを』では元長本人の言葉を信じるならば「主人公(PC)は選択らしい選択をしない」。それは、そもそものゲームのコンセプトが「幼なじみの従妹といちゃいちゃごろごろするゲーム」であり、ゲームの大半は「いちゃいちゃごろごろ」するシーンで占められている。実際、『元長柾木のしゃべり場』では上記引用部の直後に「今作において、「選択」はただ「視点移動」を意味するものでしかない。」と語っている。つまり、ゲームのインターフェース上で選択肢として提示されるものは、主人公(PC)の内面を示す選択には結びつかず、単にプレイヤーによる視点の選択でしかないとされている。
 前述した『sense off』の例もそうであるが、「この種のゲーム」の主人公(物語の主体としての)は選択によってヒロインを選択すると共に、ヒロインへの感情や思い出などと言った主人公(PC)の内面をも選択している。だが「選択らしい選択をしない」のであれば主人公(PC)の内面は空虚なままに放置される。もちろんヒトとして物語に設定されている以上、内面を持つものとして登場している。だが、それは単に登場する時点で与えられたキャラクターとしての内面や意志であり、選択や行動によって内面を持つ存在として物語において示されているのではない。
 『未来にキスを』のドラマCD『ANABASIS (Time passed me by)』では、ゲーム本編のヒロインの一人で、このドラマCDの語り手である柚木式子が次のような台詞を語る

「彼はそもそもの最初から存在していなかったのだ」と言うことを確認しに来たのだ。

 このドラマCDは、ゲームの本編最後にメキシコに渡ってしまった主人公(PC)に式子が7年ぶりに会いに行く話である。そして、実際に「彼」に出会い、その腕枕で眠った翌朝にこの台詞が現れる。
 正直な話、この台詞について私は長いこと上手く把握できないままでいた。ドラマCDのBONUSTRACKでは「彼が存在しなかった」事について、さらに「この一神教の世界に神は二柱もいらない」という事だと解題されるが、それでも今ひとつつかみきれなかったのである。
 おそらく、もっともスタンダードな読みとしては式子がメキシコまで行って会おうとした「彼」とは、プレイヤーキャラクターのさらにその向こう側に存在したプレイヤー自身であり、プレイヤーキャラクターの彼ではない、という読みであろう。つまり、「彼の不在」とはゲームないにおけるプレイヤーの不在と対応している、とする読みである。
 しかし、『未来にキスを』ではプレイヤーキャラクターは物語上の一装置にすぎず、内面や意志の発露としての選択を行わない。そうである以上、その背後にあるプレイヤーを想定する事もまた不可能である。
 そして、これまでに述べてきたような事を改めて考えると、「彼の不在」とはもっと単純にゲーム本編での主人公(PC)の内面の不在と呼応しているのだ、という事が理解できる。つまり、「彼の不在」とは「彼」の内面の不在であり、元長の用語を用いるならば「彼」はキャラクターであり「人間」ではないという事である。
 式子のゲーム本編中の台詞に次のようなものがある。

……今日だったら、私の事、好きにしていいよ?
ていうか、むしろ好きにして? 欲望のままに、ね。

 これは式子が主人公(PC)と初めて関係を持つ場面での台詞である。この台詞で式子は自身を主人公(PC)の選択に身をゆだねようとしている。だが、実際には主人公(PC)は式子との関係を意志として選択してはいない。「いちゃいちゃごろごろする」ゲームの一環として、同級生との関係を「視点」として選ばれたに過ぎない。そこに式子と主人公(PC)との齟齬がある。つまり、式子が存在していると思っていた物語の主体としての主人公たる「彼」はそもそも存在しなかったのである。
 ここで改めて、冒頭に引用した『元長柾木のしゃべり場』を引用したい。

この矛盾を解消してやるためには、登場人物が幸福になる要因を、「行動」ではなく「存在」に求めるしかない。主人公が存在しているだけで幸福だ――というのは、この種のゲームのそもそもの立脚点だったはずだ。

 式子は意志を持って選択し行動する「彼」を求めていたが、そもそもそんな「彼」など存在しなかった。『未来にキスを』ドラマCDで描かれているのはそういうことではないか。
 ちなみに、世界に一柱しか存在しない神とは、この場合は語り手たる式子自身である、と思う。たぶん。

5. 結

 前節で指摘した「人間」という概念は、ゲーム本編中の「GENESIS」で語られた事やドラマCD中での「日本の外にはまだ人間と呼べるような存在達がいたのだ」という式子の台詞にも登場し、より最近の作品である小説『全死大戦』シリーズにおける「人間(ホモ・メタテクストゥス)」等にも引き継がれる元長作品を通底する重要な概念である。
 そもそもの前期元長作品の目標「人類史というパースペクティヴにおいて美少女ゲームを定位する作業」の人類史の主体もまた「人間」である。本論で取り上げた『sense off』『未来にキスを』よりもさらに一作前の『フロレアール』では、この問題意識はより直接的で、ゲーム自体が「人間」と近代性(後年の『全死大戦』シリーズの用語では「自走性システム」)との戦いが描かれている。
 このように、元長柾木においては選択し意志する主体としての「人間」という存在は重要な問題意識の中にある。だが、『元長柾木のしゃべり場』で示されているように、それは同時に「この種のゲーム」においてはきわめて取り扱い困難な問題であった。この困難な作業を元長は『未来にキスを』によって「主人公が存在しているだけで幸福だ――というのは、この種のゲームのそもそもの立脚点だったはずだ。」という結論を得て、一旦終結する。
 その後、元長はゲームにおいては「21世紀の圧倒的な楽園を描くこと」にシフトし、2003年の『プリンセスブライド』『ラストオーダー』に結実する。そして、2004年に連載を開始した小説『飛鳥井全死は間違えない』において、再び人間性や近代性といった問題意識は元長作品の前面に再度現れ、現在刊行中の『全死大戦』シリーズに受け継がれる事になる。
 これら元長のゲームにおける後期作品や、その後の小説についても同様に論ずる余地が十分にあるが、これはまた別の機会としよう。