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視点について

0, 視点という概念

 本稿では「視点」という概念について、物語に関してのそれを論じるが、まずはその「視点」なる概念について簡単に確認したい。
 視点という語は一般的に「何かを見る時の(物理的・思想的な)立脚点」として了解されている。だが、本稿においてはより限定的に「見るものと見られるものの接点」として、視点という語を用いたい。

1、可能な三つの視点

 さて、物語という文脈で「視点」を考えるにあたり、「見るものと見られるものの接点」すなわち「読者と物語との接点」として視点を捉えると、三つの類型が考えられる。なお、本稿では、いわゆるノベルゲームを前提としている(そのため、読者とはプレイヤーである)が、若干の敷衍によってより一般的なゲームやあるいはゲームという形式を取らない小説などにも適用可能であろう。

 第一に挙げられるのは「神の視点」である。これは物語世界の全てが、空間的にも時間的にも、プレイヤーに明らかであるような視点である。この視点を考える上で重要なのは、この視点を媒介としてプレイヤーはゲーム世界に対して、時間空間による制約を受けず、全てが同時に完全に見渡されるという事である。
 このような視点を、実際にゲームや物語上で表現するのは不可能である。少なくとも、今まさにゲームをしていたり、物語を読んでいたりする状態においては、不可能である。実際にはこの「神の視点」は物語を離れて想起する場合にのみ見られるだろう。この視点を以下では「超越的視点」と呼ぶ。

 第二に挙げられるのは「個人の視点」である。この視点では、多くのノベルゲームでそうであるように、プレイヤーの視点は物語中の登場人物の視点からのものとなる。登場人物の視点を共有するのであるから、その登場人物の時間的/空間的な制約をプレイヤーは共有する。そして、この視点で重要となるのは、プレイヤーは視点を共有する登場人物の内心を知る事が出来るが、それ以外の登場人物の内心を知る事は出来ない、という事である。
 この視点は以下のような含意を持つ。すなわち、プレイヤーの物語世界に対する何らかの選択は、視点を共有する登場人物に関してはその意図を達成する事が出来るが、それ以外の登場人物にはそうはいかない、という事である。あるいは、ノベルゲームという規定に縛られないように表現すれば、登場人物の行為の根拠は視点を共有する登場人物に関してのみ与えられる、という事である。
 この視点は特にゲームにおいてはPL=PC図式とも称されるが、この視点を以下「内在的視点」と呼ぶ。

 第三に挙げられるのは「共同的な視点」である。この視点は「登場人物間の内心や行動の連鎖・関係における視点」として、定義上は与えられるのであるが、それがどのようなシステムや演出、あるいはプレイヤーの行動によって可能になるのかは未だ明らかでない。登場人物それぞれの視点から一つの物語が開けていくような構造はそれにあたるのかも知れない。だが、それぞれの視点においては内在的視点であり、それを統一的に見るプレイヤーでは超越的視点であるとも言える。この視点についての詳細な議論は後に譲る事にして、単なる超越的視点ではないが、単純な内在的な視点でもないこの視点を「共同的視点」と呼ぶ事にする。

2、プレイヤーの視点と意図

 一般にどのようなゲーム・小説であっても、プレイヤーの視点は究極的には内在的視点としてある。ゲームが展開していくディスプレイをプレイヤーが見るという構図、記述された言葉を読む読者という構図は変えようがない。
 ここで、一般にノベルゲームと呼ばれるジャンルの諸ゲームの多くでは、もう一つの意味でもプレイヤーの視点は内在的である。すなわち、ある特定の登場人物(大抵は主人公)の視点から物語が展開していく、という点である。前節でも述べたように、このような視点ではプレイヤーの行う物語世界に対する選択は、視点を共有するところの登場人物の選択としてある。
 それゆえ逆に、視点を共有しない登場人物についてはプレイヤーの意図を達成することは出来ない。これはすなわち前節で述べたように、登場人物の行為の根拠、すなわち登場人物の内心については、視点を共有する特権的な登場人物についてのみ明らかであるということである。
 なお、この「主人公以外の内心を知りえない」という制約は、古典的なギャルゲーにおいてゲーム性を成立させる重要な要素となっていた事をあわせて指摘しておきたい。

 だが、たとえ視点を共有しているとしても、その共有している登場人物に関してプレイヤーの意図を達成する事が出来ない事は多くある。これはもちろん、ゲームにはデザイナー・ライター・GMなどが存在し、小説には作者が存在している事によるのであるが、プレイヤーの視点の問題にもこの制約は関係している。
 ゲームにおける内在的視点、すなわちPL=PC図式におけるプレイヤーの意図の達成については、すでに以遠に述べた(*1)ので詳述はしない。
 簡潔に述べれば、登場人物(PC)の行為の選択に先行してプレイヤーの選択が存在するという図式も、その選択の以前においては成立しうるかもしれないが、その選択の後においてはむしろPCについて行われた行為の選択、およびその行為の後に提示された物語の展開自体が、遡ってプレイヤーについての選択の意図・志向性を規定する、という事である。この遡及的な規定性は論理的・時間的な規定性ではなく、倫理的な規定性である。すなわち、行為責任を負うものとしての自由ではなく、結果責任を負うものとしての自由という問題である。

2-1、AIR AIR篇への考察

 ここで「AIR」のAIR篇を検討の対象とすると、内在的視点としてプレイヤーが登場人物と視点を共有し、似たような意志の形式を持つとしても、異なる主体である事を表しているのが「そら」という主人公である。
 「そら」とは何であるのか。結論を言えば、そらはプレイヤー自身である。プレイヤーをゲームの内側に、ディスプレイの向こう側に、設定してみせたのが AIR篇である。DREAM篇とAIR篇の差異はそこにある。
 AIR篇を評して、プレイヤーは傍観者、とするものがあったが、これは全く正しい。AIR篇をプレイするプレイヤーは、そらの視点から物語が開けていくのを見るのだが、そのそら自身がゲーム内に取り込まれたプレイヤーなのである。AIR篇は1人称に偽装された3人称であり、その限りではプレイヤーが傍観者であるのは当然である。
 つまり、DREAM篇においては当然の前提としてプレイヤーには受け取られていた「見るものと見られるもの」の関係が、AIR篇では「そら」という登場人物として明示されているのである。ゲームにせよ小説にせよ物語はプレイされ読まれる事によって成立する事、つまりプレイヤーや読者も物語を成立させる条件であり、ある種の黒子として物語の中に「見えず、存在するもの」として登場しているのである。

 このように、プレイヤーと登場人物は究極的には異なる存在であることを示したAIR篇では、使用されるCGの点からもDREAM篇と異なってくる。DREAM篇では決して使われる事のなかった往人自身が登場するCGがそれである。そらはおそらくは往人の転生であり、その意味では往人と似たような意志の形式を持つかもしれない。だが、AIR篇の往人とそらは異なる主体である事を、視点が異なると事を、このCGの使用によって示している。
 また、同じくAIR篇で使用されたCGに観鈴が肩にそらを乗せているものがあるが、これは2つの事を示唆している。第1には、プレイヤーが登場人物と視点を共有しているとしても、それは観鈴の肩に乗るそらが観鈴と視点を共有している程度である事、第2には、プレイヤーをゲーム内に取り込んだ AIR篇においても、それがゲームという形式を取る以上、常にゲームが展開していくディスプレイを見るプレイヤーの存在がある事である。

3, 共同的視点への手がかり

 共同的視点への手がかりとして、以下3つの事例を考えてみたい。

3-1, 多視点技法

 共同的視点という事について、先には「登場人物間の内心や行動の連鎖・関係における視点」として述べた。
 多くの視点から語られる一つの統一的な物語という構造として、この共同的視点を捉えるならば、古典的にはゲームの「EVE burst error」が上げられる、また近年の作品から選べばライトノベル作家である成田良吾の諸作品などは典型的な多視点小説である。
 このような多くの視点から一つの物語が語られる多視点作品の例は、ゲームというジャンルにおいては未だ例も多くなく、その少ない作例もほとんどが単に視点を複数にする事を主眼にしている。一方、小説に目を向ければミステリーの古典的技法である叙述トリックは多視点技法の応用として確立された技法であると言えよう。

3-2, 多物語技法

 多視点から単一の物語を構成するのではなく、逆に構成される物語が多数となるのが一般的なノベルゲームやギャルゲーにおけるマルチエンド構成である。マルチエンド構成のゲーム内での位置付けは一般的には単にヒロインの数だけ複数のエンディングが準備されているというものである。
 そして、この一種の「ギャルゲーの文法」を積極的に利用したのが元長柾木や麻枝准の諸作品である。
 例えば元長作品の一部(「フロレアール」「未来にキスを」「ラストオーダー」など)は、個別のエンディングを持つ多数の物語を、それぞれ「登場人物による試行」として捉えている。つまり、個別の物語は何らかのゴールを探るためのものであってそれ単体で完結せず、それらを一通り終わった後に提示される結論部をもって初めて個別のストーリーが体系立てられるのである。(*2)
 元長作品の利用を例にすると、そこでは個別の物語は内在的な視点によって語られており、それによりプレイヤーは主人公(視点を共有する登場人物)の内心や意志に接する事が可能である。その一方で多くのそうした「試行」をプレイヤーが経験し、それら多数の経験を統合するようなメタ的な結論と対峙する事で、プレイヤーは新たな視点を獲得することになる。
 このような「ギャルゲーの文法」の利用は小説などには存在しないゲーム特有の特徴を利用するという点で新しい技法である。

3-3, 多プレイヤー技法

 これまでに述べた多視点・多物語の技法はいずれもプレイヤー・読者は単一の存在である事を前提としている。だが、小説や物語において読者の読みが多様である事は現代の思想史的には自明の事であり、受容形態は単一ではないという一般化を経るまでもなく、それがゲームやその他類似の物語の形式に適用可能であることは明らかであろう。
 話をゲームにのみ絞れば、プレイヤーは他のプレイヤーの存在を知っている。それはゲームは反復されるとか、そういった本質論からではなく、単に消費社会における消費財としてのゲームという特徴から明らかである。
 いずれにせよプレイヤーは他のプレイヤーと出会う。まったく同一の小説も読者によって多様に受容されるように、ゲームに対する受容は多様であり、他のプレイヤーと接する事で単一のゲームは多数のゲームへと変容する。もちろん、ゲームプレイの経験自体が多様になりうるようなゲーム、いわゆる自由度の高いゲームにおいては、その多数のゲームの広がりは多様である。
 このようなプレイ・読みの多様性を積極的に利用するのが多プレイヤー技法である。そして、その好例が「高機動幻想ガンパレード・マーチ」(GPM)であり、発売から半年程度の間に展開された開発元アルファシステムでのBBSでの展開であろう。(*3)
 GPMにおいてはインターネットサイト上でプレイ日記の流通が多く行われた。これはすなわち「自分以外のプレイヤーに自分のゲーム経験を伝えたい」という現れであり、同時に他のプレイヤーのゲーム経験を知りたい、あるいはその語りを聞きたいという欲求の現れである。このような傾向はGPM以前のゲームにも当然存在していたが、GPMではプレイヤーをプレイヤーとして自覚させ、また他のプレイヤーの存在に気付かせるような記述がゲーム内の各所でなされていた。
 この事は単にそのゲームがプレイヤー同士のコミュニケーションの契機になっているだけのようにも思われる。だが、あるプレイヤーが偶然的・能力的・時間的な限界で達成できなかった事を他のプレイヤーに託す事や、あるいは単に他のプレイヤーとの経験を共有する事は、プレイヤーのゲームの経験を広げ、ゲームという物語や世界に対する新たな視点となるだろう。

4, ひとまずの結論

 以上、思いつくままに「視点」という観点から論じた。当初に定義したように視点とは「見るものと見られるものの接点」であり、つまり小説やゲームが読者・プレイヤーによって物語や世界として成立する場所である。つまり、視点の問題とは、ゲームや小説がどのように受容されるか、どのように受容されると製作者は想定するかの問題であり、ゲームや小説の成立を考えるにあたって重要な問題の一つと言えよう。
 共同的視点の多プレイヤー技法で述べたように、現在のメディアインフラにおいては読者・プレイヤー間の距離は今までになく狭まっている一方、多プレイヤー技法の有効な利用は未だ見えていない。GPMはゲーム製品そのものとしてはシングルプレイヤーゲームであり、一方既存のMMOはシステムこそ多人数プレイヤーを標榜しているが、その実体はMOないしはシングルプレイヤーのゲームでしかないように思われる。現在のこの閉塞を突破するような作品の登場があるのかどうか、あるとしたらどのような技法をどのようにゲームに適用するのか、それが将来に向けた問題である。