瀬名秀明『エヴリブレス』を読み直す

0, 前文

 『月と太陽』は2013年10月刊の瀬名秀明の短編集である。収録編は全て2011年3月以降に発表されたものである点は特筆すべきであろう。一方、『エヴリブレス』は同じく瀬名秀明による2008年3月単行本初版の長編である。

 『月と太陽』を読んでいて、これはむしろ『エヴリブレス』から読み直すべきなのではないかと、そんな気分から『エヴリブレス』を読み直してみたところ、だいぶ見逃していたことが多かった。むしろ、今まで全然読めていなかったと反省するところ多かった。
 そんな経緯なので、最初は今回の原稿も『エヴリブレス』と『月と太陽』を照らし合わせながら書こうと思っていたのだけれど、まずは『エヴリブレス』の見逃していた部分を改めて整理したいと、そういうわけで書かれたのがこの文章です。

 また、『エヴリブレス』の魅力はこれから取り上げるBREATHの変遷だけではもちろんない。作品中何度も出てくる「きらきらした」という形容詞を、現に文章として表現しなければならなかった作家の成果こそがその第一の魅力であるとわたしは思っている。もし『エヴリブレス』を書店で見かけたら、その第一章だけでも読んでみてほしい。

*) 『月と太陽』も『エヴリブレス』もミステリではないので、あまり神経質にネタバレについては考慮していませんが、読者の興を削ぐレベルでのそれは避けているはずです。
*) 引用とページ表記は全て文庫版によります。瀬名秀明『エヴリブレス』(2008,TOKYO FM出版・2013, 徳間書店 徳間文庫)

1, 本論

 『エヴリブレス』での第一のSF的ガジェットは《BREATH》である。ただし、『エヴリブレス』の物語が三世代、100年近くのスパンで語られるので、《BREATH》も時間経過に応じて変化する。
 この変化がどのようであるかを見逃し、以前の章で語られた《BREATH》の特徴をもとに次の章を読むことが混乱の元なのである。
 《BREATH》がエヴリブレスにいたるまでのの変容を見てみよう。

1-1, 2001年 キャラクター

BREATHは当時流行していたSecond Life風のバーチャルワールドとして作中に登場する。作中の第三章、声を失った少女がボーイフレンドとデートをするための場として利用される時、BREATHはまだSecond Lifeとほぼ同じバーチャルワールドで、「目的がない世界」(p.73)とか「広告だけの廃墟」(p.74)とか評されている。ただし、この最初の登場時点から既に一つ際だった特徴がある。

「最初にキャラクターを登録するとき、(中略)あなたのパソコンを調べて、あなたがどんな人か想像して、外見だけじゃなくて内面までキャラクターを作り上げてゆくわけ。(中略)《BRT》はユーザの癖を見抜いて、その癖からキャラクターに自律行動を吹き込むのよ。」(p.84)
「あなたは自分のキャラクターをもちろんキーボードで操作できる。でも目を離しているときは、人工知能があなたのかわりに考えて、行動し続ける。」(p.84)

 2013年にもしこんなサービスが存在していたらどう見てもプライバシー的にNGではあるし、『エヴリブレス』が刊行された2008年やこの第三章の舞台2001年でもやっぱりNGではあろうと思うのだが、これはBREATHの大前提なのでプライバシーの話はひとまず置く。ひとまず置くのではあるが、『月と太陽』を読んだのであれば、収録作『瞬きよりも速く』を思い出すべきだろう。ポイントは2つ。『瞬きよりも速く』では外から見たときに動くもの(心づかい、思いやり)と動かないもの(心、思い)が対比されたが、BREATHが解析するパソコンのデータはどちらに該当するのか。そして、その解析結果でもたらされるBREATH内の存在の自律行動についてはどちらに該当するのか。

1-2, 2010年 分身

 さて、場面変わって第四章。舞台になる時間は2010年の秋。もちろん『エヴリブレス』が出たのは2008年だから、2011年3月まであと半年とかは関係ない。この2010年のBREATHの描写で初めて「共鳴」というキーワードが出現する。
 第三章以来、9年以上の間を開けてアクセスした杏子を、BREATHは「あなたは九年と一〇二日、《BREATH》にアクセスしていません、共鳴しますか?」(p.118)というメッセージで迎える。現在の自分とBREATH内キャラクターの自分との同期を共鳴と呼ぶ。第三章では(2001年のBREATHでは)、外側の自分とBREATH内の存在の関係は「ログイン」や「操作」といった単語や「自律行動を吹き込む」などで表現されていた。それが、第四章以降は(2010年以降は)「共鳴」という言葉で表現されるようになる。これと同時に、BREATH内の存在は、第三章においてはキャラクターと呼ばれていたものが、第四章以降では分身と呼ばれるようになる。
 「分身」との「共鳴」が意味することを端的に表しているのが、第四章で描かれるBREATH内での杏子と洋平のインタビュー場面である。

 杏子は瞼を閉じた。なぜか不意に目頭が熱くなったのだ。二人の声と音楽だけが耳から入ってくる。自分の分身と距離ができて、ようやく杏子は先輩の言葉が聞こえてきた。
 野下洋平さん、と分身は先輩の本名を語りかけている。(中略)杏子の分身は話題を進めてゆく。穏やかな口調だが、その手際はすてきだった。堅実で、しかし杏子自身でなければきっとわからないような、ほんのわずかな熱を感じた。
 分身は先輩へ心を向けているのだ。そのことに気付いた。(pp.124-125)

 分身は自分自身ではない、と同時に自分と同じでもある。引用した場面では、洋平(の分身)と対話しているのは杏子の分身であり、杏子自身ではない。一方で、分身が感じている熱や洋平に対する志向を杏子自身は感じている。分身の側からの働きかけがある故に、一方的な「ログイン」とか「吹き込み」とかではない「共鳴」という語が使われるようになったのだ。
 そしてもう一つ重要なのは、杏子はBREATH内で見いだした洋平を、まさに「洋平の分身」としている、自分自身が出会った洋平とBREATH内の洋平を重ね合わせている、という事である。
 自分を元にして別の世界・条件の元で生き続けてきた、つまり、今自分があるのとは違うあり方で存在してきた自分、そうであったかもしれない自分の可能性、共鳴とはそういった分身と相互に影響し合うことである。

1-3, 2037年 時間的並行世界・想い出

 第七章、2037年、視点は杏子から娘の柚希に代わっている。
 柚希によるBREATHについての語り方を見てみよう。

 その並行世界のひとつひとつに、柚希の分身は存在している。しかしそれぞれのカードが帰属している時間はどれも違う。いちばん下のカードは柚希が生まれてきた日の、中くらいの位置に浮かぶカードは高校に通っていたときの、そして上の方のカードは結婚して宮古に移り住んだ直後の、それぞれの瞬間が籠められている。
(中略)
 共鳴しますか?柚希は頷いてそのカードを引き出して捲る。そのカードの中で生きる分身と共鳴する。
 ハートの16。柚希はその世界に生きる一六歳の分身が、自分とは違った恋をしていることを知る。(p.230)

 2010年のBREATHの分身は一人だった。BREATHの技術的には複数の分身を持てたのかもしれないが、少なくとも杏子の分身は一人だった。一方、2037年に柚希が持つのは時間軸の中でひたすら記録された無数の分身である。杏子の分身のようにあり得たはずの可能性を試すものではない。一方で、単に記録を積み重ねるのであれば外部記憶と呼ばれるSF風ガジェットのバリエーションだろうが、そうでもない。もう少し後を引用してみる。

 いま柚希が取り出したカードでも、一六歳の彼女は恋をしている。そっとカードの表を見たとき、彼女のときめきがこちらの胸と重なりあう。彼女が恋に落ちた主観は、しかしこのカードには書かれていない。いつか彼女の恋が終わるその日も、このカードの表にはない。ただ、分身の彼女は柚希が共鳴するたびに、少しずつ、少しずつ、変化してゆく。(p.231)

 BREATHの分身と柚希は共鳴している。一六歳の柚希の分身は二五歳の柚希の感じ方に影響を受け、少しずつ変わっていく。BREATHは単なる過去の記録ではなくて、今の自分の視点から照らし出され呼応し続ける記憶、つまり想い出と言うべきものである。

1-4, 2061年 可能的並行世界

 第八章。一気に25年が経過した2061年の語り手は杏子の孫、柚希の娘、瑞季である。
 瑞季にとってBREATHがどうであるか。台風が吹き荒れて文化祭が流れた日の朝の場面から引いてみよう。

 《BREATH》世界の中では文化祭が盛大に行われている。瑞季の分身も自治会員のひとりとして指示を取り仕切り、構内を西へ東へと走り回っている。(中略)
 そんな様子を眺め、感じ取りながら、携帯を握る親指をゆっくりとセンサの上で滑らせれば、ページを捲るように他のレイヤーが次々と浮かび上がる。(中略)
 思い切り派手な装飾を施したレイヤーでは、生徒全員が最初から仮装して祭を楽しんでいた。朝から平良の町に繰り出してパレードを敢行し、商店街に飾り付けをして回るのだ。その各々のレイヤーに、瑞季の分身たちがそれぞれ生きて動いている。(pp.247-248)

 この時、BREATHは時間軸だけでなく、可能性の軸にも開かれた無数の並行世界から成立している。それらの並行世界に共鳴することは「現実の瑞季が親指を動かすたびに、各々の分身の感情がトランプカードをシャッフルするように脳の中へ入り込んでくる。(中略)自分の方が分身みたいな気さえしてくる(p.248)」とまで表現される。

2, 結

 続く第八章ではさらに別の構造をしたBREATHが出現するが、それは物語の核心に近いので、ここでは触れない。そこに至って《BREATH》は「エヴリブレス」になる。
 そこは、あなた自身の読書で見いだしてもらえれば、幸いである。

3, 補遺 『月と太陽』紹介

 当初の構想により『月と太陽』の概要を書いたが、本論ではほとんど引く必要がなかったので、ここで改めて紹介だけする。

 この短編集に収録されているのは、『ホリデイズ』『真夜中の通過』(ルビ: ミッドナイト・パス)『未来からの声』『絆』『瞬きよりも速く』の5編。
 『ホリデイズ』は震災の数ヶ月後、作家と航空学校の教官が空路旅をするロードムービーである。舞台は日本を離れたカリフォルニア、目的地はチノの航空ショー。作家は瀬名秀明本人である事が強く示唆されて、その意味では私小説的でもある。
 『真夜中の通過』(ルビ: ミッドナイト・パス)は、超小型衛星(マイクロサット)の運用チームに所属する院生の話。東北大青葉山キャンパスが舞台となっていて、だいぶ松崎有理っぽい。震災後の仙台からの物語をストレートに描いた作品。
 『未来からの声』は、イーガン風のSF。頭皮上に形成した電子回路と生化学的物質の投与で実現したテレパシー技術「フラッシュ」が横溢する社会で生きる元研究者の作家の元に、未来からメッセージがやってくる話。ただし、主題はタイムマシンでもテレパシーでもない。
 『絆』は、結合双生児のSarosとExeligmosをその名の由来である皆既日食と巡る物語。短編集タイトルの『月と太陽』も日食(月と太陽が重なって見える)との関連でつけられたものであろう。この作品はページ数にして短編集の半分近くを占めており、中編と言うべき料と密度を誇っている。そのため筆者自身きちんと読み込めておらず、ここではあまり深くは触れない。
 『瞬きよりも速く』は、震災後に情報特区となり、大気中に無数の情報デバイスが浮遊する仙台で展開されるサスペンス。ビッグデータと監視社会、人々の動きから人々の内側を推定する技術、目に見える「心づかい」「思いやり」が「心」「思い」を覆っていくことがテーマ。

*) 瀬名秀明『月と太陽』(2013, 講談社)

4, 補遺 エヴリブレス 章・年対応

 エヴリブレスは各章冒頭に年齢が記されているが、それが何年にあたるかはほとんど記されていない。今回、再読する際に整理したのが次の対応一覧である。なお、第一章と第十章は年代を記す意味はないと思われるため、省いている。

章番号 章タイトル 年
第二章 杏子一五歳 1989
第三章 杏子二七歳 2001
第四章 杏子三六歳 2010
第五章 杏子三六歳 2010
第六章 杏子五〇歳 柚希一二歳 2024
第七章 杏子六三歳 柚希二五歳 2037
第八章 杏子八七歳 柚希四九歳 瑞季一六歳 2061
第九章 杏子九九歳 柚希六一歳 瑞季二八歳 2073