サーカス

「自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。」
『王とサーカス』, p.175
「タチアライ。お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメインイベントというわけだ」
『王とサーカス』, p.176

 『王とサーカス』の9章、本のタイトルと同じ章タイトル「王とサーカス」をつけられたこの9章は、間違いなく本作の白眉である。
 自国の王を皇太子が銃殺したという事件について大刀洗に問われた王宮勤務の軍人ラジェスワルは、事件について述べることを断る。その理由を問われたラジェスワルは「信用のおける友人たちには話してもいい。求められれば、公的な調査や裁判でも話すつもりだ」が、大刀洗に話すのは断り「外国人の、記者だからだ」(p.167)と返す。
 どれほど記者自身の意図が尊くても、あるいはその報道により悲劇的な事件の被害者に救いの手が延べられるとしても、外国人の記者が悲劇的な事件を自国の読者に伝えることは、冒頭に引いたように、読者にとって「この上もなく刺激的な娯楽」だと「サーカス」に他ならないのだと、ラジェスワルは指摘する。

 だが、「サーカス」であるというラジェスワルの指摘は、『さよなら妖精』や『王とサーカス』に現代史上の事件を組み込んだ作者と、これら作品を楽しむ我々自身をも照らすものである。
 『さよなら妖精』は素晴らしい青春ミステリである。特に、学校生活など小さな円の中で繰り広げられることが多い青春ものの中で、ヒロインとの断絶をユーゴスラヴィア崩壊という世界史的出来事とリンクさせることにより主人公の挫折を効果的に描いている。そんな風に『さよなら妖精』を評することは可能だろう。そういう批評を抜きにしても、いずれにしても我々は『さよなら妖精』を楽しんだ。
 しかし、それはかつてユーゴスラヴィアという国家であった領域での前世紀の終わりから今に至るまでの出来事を「サーカス」にすることに他ならない。

 これに反論できるか。

 大刀洗自身の考えは、このラジェスワルとの対決の後、谷津田や警官との対話を経て、結末の「犯人」との対話で語られている。
 では、我々はどう考えるか。

(『米澤穂信『王とサーカス』感想・連想』から抜粋, 『本読みの記録 2015/08』, liliane.jp, 2015/08 C88)