『君の名は。』2回目感想

2回目を見てきての、感想というか、妄想というか。

一等大切なもん

三葉の祖母、一葉によれば、宮水神社のご神体のあるかくりよ(隠り世)から此岸に戻るには「一等大切なもんを引き替えにせにゃいかん」らしい。一回目の訪問、一葉、三葉(瀧)、四葉の3人で訪問した時には「あんたたちの半分」たる口噛み酒を奉納したことが、それにあたる。

では、二回目の訪問でかくりよから此岸に戻ったとき、瀧と三葉は何を引き替えにしたのか。引き替えにした「一等大切なもん」とはなにか。

クレーターの外縁で、かたわれ時に、瀧と三葉が出会ったとき、彼らは夢をみていたのだろうか。
「夢は夢。目覚めればいつか必ず消えてしまう」
いつか必ず消えてしまうとは、すぐに消えてしまうとも限らない、ということではないのか。

あの瞬間は夢ではなくて、しかし、それでも彼らから名前が失われたとしたら、それは「一等大切なもんを引き替えに」したからではないのか。

2016/09/07

かたわれ時

誰そ彼(たそかれ)、彼誰そ(かれたそ)、彼は誰(かわたれ)、黄昏時の語源について、雪ちゃん先生は物語の冒頭でそう語っている。

「夕方、昼でも夜でもない時間。人の輪郭がぼやけて、彼が誰か判らなくなる時間。人ならざるものに出会うかもしれない時間。魔物や死者に出くわすから『逢魔が時』」

そして、糸守では黄昏時をかたわれ時という。

物語のクライマックスで、クレーターの外縁で、瀧と三葉が出会ったのはかたわれ時、それは彼と我の時であり、彼らが片割れとなった時であった。

たそかれでも、かれたそでも、かわたれでもなく、かたわれという言葉が必要であった理由はここにある。

2016/09/08

災害によって失われるもの(シン・ゴジラとの対比)


雪駄さんのツイート(『君の名は。』と『シン・ゴジラ』のねたばれ)から。

この話、東京は復興するけど、糸守(のような地方)は復興しない、って言ってしまえるかもしれない。それはさすがに暴論なんだけど。

さて、『シン・ゴジラ』との対比をするなら、『シン・ゴジラ』では、人は間違いなく死んでいるのにその描写をしないってことは良く指摘されている。一方で、ゴジラ(と人)によって壊された街の復興は『シン・ゴジラ』の結末で希望を込めて語られている。
『君の名は。』では、あまり明確に語られてはいないが、物語の結末に到達しても、糸守の町の半分は隕石による新糸守湖の底に沈んだままで、人々は糸守を離れて生活し、戻ることはない。ただ、瀧と三葉の行動によって、あるいは宮水神社の血によって、糸守の人々の死は避けられている。(しかし、事実上の強制移住は、それによって人の死を招くことも僕らは知っている)

とっても、雑な議論をするなら、『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も東日本大震災と原子力災害の後作られた作品として、どちらもあの経験を負っている。
ただ、『シン・ゴジラ』は人が災害に立ち向かい復興することができるという話であるが、『君の名は。』は災害によって、たとえ人の死が避けられたとしても、あるいはさらに復興できたとしても、美しいものが失われるという話であり、2つの作品には差異がある。

『君の名は。』の結末で、就活面接の瀧は「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」に続けて「たとえ消えてしまっても、いえ、消えてしまうからこそ、記憶の中でも人をあたためてくれるような街作り」と語っている。
高山ラーメンの親父さんが「あんたの描いた糸守。あらあ良かった」と語ったのはそういうことだ。

2016/09/10